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力強くて脆くて、大切なひかり|映画「大きな家」を見て

※ネタバレ含みます。

朝。家を出なくちゃいけない45分前に目が覚めた。もう少しベッドにいたい。でも、今日はずっと見たかった映画を見に行く。チケットも、もう取ってある。顔を洗って、歯を磨いて、家を出た。

ずっと見たかった映画とは、児童養護施設の日常を収めた「大きな家」というドキュメンタリー映画。

東京のとある児童養護施設。
ここでは、死別・病気・虐待・経済的問題など、
さまざまな事情で親と離れて暮らす子どもたちと
職員が日々を過ごしています。

家族とも他人とも言い切れない、
そんなつながりの中で育つ子どもたちの本音と、
彼らを支える眼差しに密着しました。

「大きな家」公式サイトより


竹林監督の前作「14歳の栞」と同じ匂いを感じ、これは絶対にわたしに見せた方が良い、と直感していたのだが、公開当時、あんまり家の近くでは上映していなかった。

なかなか遠出する時間を作れずにいたら、前に住んでいた近所の小さな映画館で上映されるという情報を目にし、やっぱり神様もわたしに見せたがっているじゃあないか、と運命を感じてすぐにチケットをとった(ちょろい)。

小さくてあたたかくて、居心地の良いお気に入りの映画館。他にも見たい作品を近々上映するようなので、また来よう。好きな街には好きなだけ行った方が良い。


バスと電車を乗り継いで映画館に着き、トイレを済ませ、席に座る。休職していた頃によく通っていたので、その頃の心情を少し思い出して懐かしくなる。

最近は集中力がもたないことに悩んでいたが、この日の123分はあっという間だった。竹林監督の映画は、見ていた、というより、その中で過ごしたような気持ちになる。

エンドロールを眺めながら、どうか彼らが健やかに生きていますように、と願わずにはいられなかった。「14歳の栞」を見た時もそうだったが、スクリーンで目にしたすべての人が、大切な人になる。

まだここから出たくないなあ、と思いながら席を立って、涙と鼻水を拭いて、外の空気を吸って、歩いて、「自分は何を思った?」と問うたけど、分からなかった。

正直分からないけれど、言葉になんかなおらないけれど、生きるということのそのままを見せつけられた後に残った私は、さっきまでよりも少し、これからも生きなくちゃいけないこの世界に差すひかりを、この目で捉えることができるようになっていた。

力強くて、まっすぐで、張り詰めていて、脆い。孤独で、大切で、抱きしめたくなるようなひかりが、私のゆく先にも差しているような気がして、それは紛れもなく彼らが見せてくれたそれとおんなじだった。

色んなセリフが出てきた。ひとりの人間が、さまさまな体験をして、それは"ふつう"の中心から少し外れた境遇に置かれているがゆえの複雑さもあって、そうして出てきたことば。

なかでも、「ここにいる人たちは家族じゃない」ということばは、なんども発された。

血は繋がっていなくて、一緒に住んでいるだけ。家族ではなくて、あくまで他人。そう自分に言い聞かせることで、自分が産み落とされたこの世界を、受け入れようとしているのが伝わってきた。小さい体で、当たり前に悲しみもある世界で、それでもまっすぐ前を向こうと、もがいているようにわたしには見えた。

わたしが想像する子どもよりもずっと強くて大きな子どもたちの生活が、淡々と目の前を流れていく。いつまででも見ていられた。生きているだけで、人を惹きつけるものがたりを、彼らは体でつくっていた。

あるひとりが言った「しょうがないから」という言葉は、その背景から想像されるものよりもずっと健やかで、カラッとした諦めを含んで聞こえた。彼の逞しさに、私も自分の世界を受け入れる勇気をもらった。

いろいろなことをすっ飛ばして大人にならざるを得なかった彼らが、どうか強く生き続けられますように。

心からそう思ってしまって、やるせなくて、涙が出た。シンプルに、彼らのためになることをしたい、そう思いもした。懸命さに、胸を打たれた。

一度生まれてしまったら、生きなければいけない、それがどんな世界だろうと。そのことを良くも悪くも見せつけられた。

生きるということは、自分の目に映る世界を受け入れようともがき続けることなんだと、子どもたちに教わった映画だった。




映画を見た後、お昼を食べて、買い物をして、カフェにこもった。余韻が全然消えてくれず、しくしくとしていた。言葉にできない感情が体内に溜まってしまって、モヤついていた。

スタバのほうじ茶クラシックティーラテが、全然おいしくない、なんか味がしない。

ああ、だから心を震わせる映画って嫌なんだ。いつもこうやって疲れてしまう。

でもじゃあ、心の上辺だけを、明るいところだけを味わえる人生が良かったのか?起伏の少ない心が欲しいのか?と聞かれると、全くもってNOである。

この厄介な感受性を持っているからこそ味わえるものがあるって、知っている。知ってしまっている。

私はその味わったものを、これから誰かと分かち合って生きていくんだろうか。大きな家の住人のように、人にまっすぐに手渡したり、時にはぶつけたり、するんだろうか。それとも声に出さずにしまっておきたいんだろうか。分からない。

でも一つだけ言えるのは、「書きたい」ということ。言葉になおして文字にすることが、私にとっては感情の消化だということ。私はきっと、書くことで発散するタイプなんだ(かっこいいじゃん)。

そう思って、(感想を言葉にするのってあんまり好きじゃないんだけど、)この文章を書いた。明日にはしくしくがおさまっていると良い。

スタバを出ようとドリンクを飲み干したら、底の方には甘いシロップが溜まっていた。


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