人生の最後を考える時、「循環」を意識してみる。森へ還る「循環葬」とは

日経MJに循環葬についての記事があって、ふと思ったことを書いてみる。https://www.nikkei.com/article/DGKKZO80490770X00C24A5H24A00/

高齢者が増え続ける日本では、自分の遺骨の行く末について考える人が増えている。そこで近年注目を集めているのが森への「循環葬」だ。循環葬は火葬した遺骨を土と混ぜ合わせて埋葬し、墓標を立てずに遺骨が自然に還る仕組みになっている。
・料金は生前に契約
・管理費などは不要
・墓標を立てないので埋葬数にも制限がない
といった特徴があるとのこと。

子供の頃、親戚の墓参りに連れて行ってもらった際に、こんなに大きなスペースにたくさんの遺骨が眠っているのだと思うと、いずれ地球は墓場だらけになってしまうのではないかと思ったことがあった。
墓のスペース、墓の管理などを考えると、跡継ぎ不要の墓を選ぶ人が増えていることもうなづける。また、無宗教が多い日本では、こういった循環葬は他国と比べると比較的受け入れやすいのではと思う。
ただ、倫理的または道徳的な観点で賛否が出るようなサービスは浸透するまで時間がかかるだろうし、古くからの慣習を一新するのが苦手な国民性を鑑みると、今後どういった変遷を辿るのかとても気になった。
記事にもあるが、海外では遺体を堆肥化するサービスもあるらしい。海洋散骨や樹木葬などもそうだが、結局人は地球という大きな循環の中に生きているので、こういったスタイルは今後根づいても良いのではと感じた。
また、近年では火葬場の需要過多で、火葬待ち専用の場所もいっぱいになっているという。誰もがいずれは直面することになるので他人事ではないと思うし、高齢化にともなう多死社会に関連するサービスは今後も注目したい。

対象となるのは
・墓は不要と考える人
・夫の家系の墓に埋葬されたくない女性
・ペットとの埋葬を望む人
とのこと。

自分が入る墓はというと、祖父が建てた墓がある。詳しくは分からないが、「3世代まで入れる」という決まりらしく、祖父母、親、そして私が入れる。それはつまり、私の子どもは入れないということを意味する。

墓は残された者にとっては意味を持つと考えるのが普通なのかもしれない。
でも墓の管理や諸々を考えると、自分の子孫には「そんなことしなくていいから自分の人生に時間を割いてくれ。私のことはさっさと忘れてくれ」と思う。これはきっと歳をとればまた違った感情が湧いてくるのかもしれない。

高齢化による多死社会で、火葬場が足りなくて遺体を1週間以上保管する必要があるケースなどを聞くと、なんとも言えない気持ちになる。
社内でこの議題について話していると、「我々が死ぬ頃には、自分で棺桶に入って安楽死、その後自動で埋葬される時代が来るかもね」なんて話が出ていて不覚にも笑った。滑稽だけど、合理的とも言える。
誰もがいずれ迎える死。前方後円墳やピラミッドまでいかなくても、猫の額ほどでも自分の墓に入りたいといずれは思うのだろうか。自分の墓で地球の貴重なスペースを取るくらいなら、粉にして海にまくなり、土に還すなりして欲しいと思う今日この頃。
安楽死の導入でも世界でこれだけ意見が分かれるのだから、死生観は皆人それぞれ違う。でも死ぬときくらい何にも縛られず、人生を終える最後の瞬間まで「選択できる人生」だったら、それはもう幸せでしょうと思う。


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よしかわの内省と着想
娘のオムツ代とバナナ代にさせていただきます。