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気になる小説を読んでいたら、自分の依存に気づいた話。

お気に入りのブログを見ていたら、その方が江國香織さんの「つめたいよるに」という短編集の「冬の日、防衛庁にて」というお話の感想を書かれていて、とても興味を引かれて久しぶりに小説を買いました。
最近は課題や今勉強している分野に役立ちそうな本ばかり読んでいたので、ただ楽しむためにする読書はとてもわくわくします。
いつもは浴槽に浸かるのは面倒くさい私ですが、いそいそとお湯を溜めてゆっくり湯船で読書することにしました。
休日だからやろうと思えるちょっとした贅沢な時間です。

お目当ては「冬の日、防衛庁にて」だったし、このお話の余韻も強く残っています。
何人か集めてこのお話を読んでもらってどう感じたかシェアし合いたい感じのお話でした。
読んでいる人の立場や経験によっても読後感が変わりそう。
定期的に読みたくなるような、たくさんの味がする感じのお話。
ほんとに買ってよかったです。

でも、ここで取り上げたいのはこのお話ではなくて、同じ短編集に収録されている「ねぎを刻む」というお話です。

※お話の内容に触れていますので、これから読まれる方はぜひ実際にお読みになってからこちらも見ていただけると嬉しいです

まず「冬の日、防衛庁にて」から読み始めたこともあり、気になるタイトルのものからどんどん読んでいこうと思って2番目に選んだのがこのお話だったのですが、物語として言語化されている感覚がわかりすぎて震えます。

〇・一秒だか〇・〇一秒だか、ともかくホームに片足がついたそのせつな、何かの気配がよぎり、私は、あっ、と思う。あっ、と思った時にはすでに遅く、私は孤独の手のひらにすっぽりと包まれているのだ。

江國香織「つめたいよるに」(ねぎを刻む)

この次の文章も、何度もそうそうそう!!!と頷いてしまうほど、自分が孤独を感じるプロセスをその通りに言語化してもらっている感じがして、小説家の方って本当にひとつひとつの感情や感覚をどんな瞬間も見逃さずに捉えていらっしゃるんだなぁ、と感動してしまった。
どんな感情や感覚もそうかもしれないけど、私にとって孤独って「え?今?」みたいな思いもよらないタイミングで来ることがよくあります。
別に特別悲しかったり、楽しかったり、何か寂しくなるようなことがあったわけでもないのになぜ今?みたいな。
このお話を読んでいて、それを思い出しました。

ちょっと話は変わりますが、私は家でSNSや動画サイトをよく見ます。
特に、ずっと誰かがしゃべっている感じのにぎやかなものを好んで見ている気がする。
ゲーム実況とか、グループの方だったり、一人でもよくしゃべる人の動画ばかり見ている。
それは特別問題ないのですが、困るのが、動画の止めどころがわからなくなって延々と見るのをやめられないということ。
休日はそれで朝方まで夜通し見続けてしまうこともしょっちゅうでした。
なんか中毒っぽいな?
課題やらなきゃなーっておもいつつ動画見始めちゃったりして、とにかくやるべきことに手が付けられなかったり、生活サイクルに支障が出てしまうことが気になりながらも、なんかずっとこれがやめられませんでした。
こうして客観的に自分の状況書いてるとほんと中毒だな。
そんな中、この「ねぎを刻む」を読んでいて、そういうことか!!とはっとさせられた文章がありました。

こんな風に電話をかけまくらなければいられない夜は、誰かと話せば話すだけ孤独になるのだ。いやというほど知っている。
一人の部屋で、うっかりTVでもつけてにぎやかな音をこぼしたら、余計孤独になるのと一緒。
誰にも、天地神明にかけて誰にも、他人の孤独は救えない。

江國香織「つめたいよるに」(ねぎを刻む)

私は、一人暮らしの自分以外の生活音のない、人の話し声のないこの空間の孤独感が耐え難くて、孤独ではないように感じられる空間を作り出そうとしていたんだなぁということがわかりました。
そして、私に孤独を感じさせない要素は「人の声がすること」だということもわかった。
実際に誰かと会ったり話したりするのは、色んな事情で別れる時間を自分で決められなかったりするから、自分で切り時を選べる動画を使っていたのかもしれないということも。
でも、動画がついている間はずっと賑やかで気にならないけど、PCを消した瞬間に、本当はこの部屋は自分以外の音のしない孤独な場所なのだということを嫌というほど思い知らされるのです。
そういえば、私はいつも寝る支度を全て整えて寝る直前にやっと動画をきるんだけど、そういうことだったのか…とものすごく腑に落ちました。
自分がそんなに孤独や寂しさを感じることが苦手、それも耐え難いほど苦手と思っていたの知らなかったな!
そういえば、お風呂に入るタイミングを先延ばしにしちゃうのも、多分動画の音が聴こえなくて静かな場所だからなのかもしれない。
どんだけ寂しがり屋だったんだ、私!!
これは大変なことに気づいてしまった。

でも、引用した文章の最後にも書かれている通り、自分以外の誰かが自分の孤独を救ってくれるかもしれない、とは私も思わない。
だから、孤独を救ってもらいたいという想いで誰かと関わったり、何かと関わったりしても、自分の孤独はどこまでも同じ大きさで留まり続けてしまうんじゃないかと感じています。
実際、私もどれだけ長時間動画を流し続けていたところで、孤独をごまかすことはできても、孤独を癒すことはできなかったし。

孤独をどうにかしたいと思ったら、自分で見るしかないのかもしれない。
ごまかそうとせず、紛らわせようとせずに、また迫ってきたなと感じたら、自分を包み込んだそれはどんなものなのか、自分で観察してみるのが一番手っ取り早いのかもしれない。
一人で見る勇気がなかったら、その時の感覚を信頼できる誰かに話してみるのもいいかもしれない。なるべく孤独じゃない時に。
思い切って見てみたら、自分で思っていたよりも悪いものではないのかもしれないし。
それが何だか正体がわからない時が、一番怖く感じるような気がします。

お話を読んで自分の孤独に気づいてから、実験的な気持ちで2日間くらい一切動画を見るのをやめてみました。
一人の家でどんな気持ちになるのかなと思って。
どれくらい寂しくなるんだろうかと身構えていたけど、案外大丈夫だった。
人の話し声じゃなくて、スピーカーで流す音楽で十分だとわかりました。
そして、動画を見ている時間がなくなると平日でも十分自分の時間があるんだなーと気づいた。
私一体どんだけの時間を動画視聴に費やしてたんだ…。
音楽を聴いて鼻歌を歌いながらご飯作って、のんびり食べて、ゆっくり湯船に浸かっても寝る時間も十分にあるということがわかった。
3日目にちょっと動画サイトを覗いてみたら、やっぱり止まらなくなりやすいことがわかった。
2時間くらいで強制的に終わるから映画なら大丈夫。
今度音楽以外の音が欲しくなったら、動画じゃなくて映画観るようにしよう…。
動画サイトも、「これが見たい!」って思うものを観るぶんには全然いいんだよね。
私は観たいものがないにも関わらず賑やかさを求めて延々と流し続けてしまうのが問題なんだよなぁ。まさに中毒。

自分の孤独の強さに気づいたのがほんと最近なので、これからちょっとずつ向き合ってみて、いい付き合い方を探していこうと思います。
思いがけずに良い気付きを与えてもらい、改めて読んでよかったなと感じました。
他のお話を読むのも楽しみです。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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