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ルッキズムというドブの中から

自分は、アンチルッキズム、アンチエイジズムに傾倒している。
外見至上主義や若い方が価値があるという考え方は狂ってるし、絶対抵抗していきたい。

とは言いつつも、増えていくシミやシワを見ると嫌な気持ちになって、美容皮膚科で痛い思いをしてまで改善しようとする。
これ以上太らないように週5で縄跳びをする。
まつ毛美容液でまつ毛を伸ばし、お金を払ってムダ毛を除去する。
前回の化粧の投稿もそうだし、外見を気にしている。

これって自分もルッキズム、エイジズムに囚われているのでは?

より良い自分でありたいと努力することと、ルッキズムに囚われて必死になることの違いが分からなくて苦しい。

美容皮膚科に通ったり、似合うメイクを研究したり、脱毛したり、運動を頑張ったりすることは、ルッキズムに同調しているのか?


そもそも私がアンチルッキズムに共感したのは、過去の経験から。

中学生の頃、私は標準体重だったが、ファッション雑誌の影響や、周りの友だちとの比較、からかわれたことが原因で無理なダイエットをして、36kgまで痩せた。
体重は減ったけど、皮膚も臓器も心も人間関係も全部ボロボロでずっと地獄にいるみたいだった。

高校生になると、反動で体重が倍になるまで太った。食べ物を貪るのを辞めたくても辞められない自分が惨めでとても辛かった。
中高生の間のほとんどの期間が、辛いものになってしまった。

大人になったらなったで、女性的な魅力の有無や美醜によって、周りの扱いが変わる場面に幾度となく出くわし、その度に受けた辛さが澱のように自分の中に溜まっていった。
救いだった音楽を楽しみに行ったライブハウスでさえ、バンドマンがMCで「今日の客、可愛い子おらんな〜」と言うを聞いて、どこにも逃げ場なんてないのかと絶望した。

もう充分。もう追い込まれたり、いちいち傷ついたりしたくない。
そんな思いがアンチルッキズム、アンチエイジズムに重なっていった。


アンチルッキズム、アンチエイジズムと切り離せないものの1つに自己愛が挙げられる。

「ありのままの自分を愛する」という表現をよく聞くし、大切なことだと思うけど、「ありのまま」ってなんだろう。

自分を愛するためには、自分自身に後ろめたくないだけの努力は必要だと思う。

やっぱり何かを頑張れた時って気分が良いから、「これができた!」とか「続けられた!」、「失敗したけど行動できた!」、「学びが得られた!」みたいな経験を積み重ねて、自分自身との信頼関係を築いていくしかないのかなと思う。

だから「ありのまま」というのは、何もしなくてもいいという意味ではなくて、「誰かが決めた基準や数値に左右されず」という意味だと解釈している。

自分の体とメンタルが健康でいられるかどうかを基準に選択したり、行動したりすること、自分自身を蔑ろにしないことが、自分を愛するということなのかなと思う。

今は過度なダイエットを始める前の体重にちょうど戻っている。
だからいわゆる標準体重で、美容体重やモデル体重には程遠い。
でも私は今の私が割と好き。
痩せてる太ってるじゃなくて、若い若くないじゃなくて、今が1番自分のことを大切にできているから好き。
大事な家族や友だちがいて、好きなものがたくさんあって、やりたいことを楽しめて、健康診断オールAの健康で健全な今の自分がお気に入り。

何年もかかって、やっと自分のことを愛せるようになってきた。
頑張れない時は休みながら、その時の自分に合った方法で、自己愛のための努力を続けていきたい。
その努力は誰に認められなくてもいい。
自分が分かってて自分で認められたらそれでいい。


とはいえ、外的な要因で傷つくことは今もたくさんある。
自己愛で武装しても、外からの破壊のスピードの方が早い。

それでも負けずに戦いたい。
生まれ持ったもんで、手持ちの武器で、存分に戦っていきたい。

戦いたいっていうのは、誰かと競ったり、勝負して勝ちたいって意味じゃなくて、誰にも何にも踏みにじられないようにしたい。
「ここがこうだからブス」
「体重が〇〇Kg以上あるからデブ」
「〇〇歳超えてるからババア」
みたいな雑音を跳ね除けていけるようになりたい。

そして何より、表層の美醜ではなく、姿勢や習慣、気遣い、知性などから生まれる美しさに気がつける人になりたい。
自分もそうありたい。
いろいろな美しさを身につけながら歳を重ねていけたら最高だな。 

誰にも綺麗かどうか、痩せてるかどうかをジャッジされる筋合いはないし、そのジャッジには何の価値もない。

だから自分も他者の容姿や年齢をジャッジしたりしない。
それぞれの思う美しさを否定したりしない。
ビーガンだって美容だって整形だって、それがその人にとってお気に入りの自分になるために必要なら過程なら、それを否定する権利は誰にもない。


情報過多の社会の中で、誰かが勝手に決めた基準から外れたことをコンプレックスと認識して、自分の中で増殖させて、勝手に苦しくなっていくのはもう辞めにしたい。

自分の努力がルッキズムやエイジズムと同調しているのではと苦しむのは、それらが他の誰でもない自分が自身にかけた呪いだということに薄々気づいているからなんだろうな。

きっかけは外的要因だったかもしれないけど、ルッキズムやエイジズムというドブに囚われて苦しみ続けているのは自分の意思だ。

このドブの中でもがきながら、足掻きながら、飲み込まれないようにその時の自分ができる最善で、一進一退この呪いと向き合い続けていくしかないらしい。

生きてる間にドブから這い上がって、雑音なんか全部鼻で笑って、気の利いた一言であしらえるようになるために、今日も1日。

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