【長文】早くあきらめたら良いのに。
今まで多くの人にこの話をした事がありますが、全く理解してもらえません。
10年以上の時間をかけて、妻がようやく「なんかわかってきた。難しいけど」となってるくらいです。
今までで最初の1回で「そうだよね!」となった人は、たった1人だけです。
その人も「同じ感覚の人に会えると思ってなかった」と言ってました。
なので、読んでも納得出来ないし、きっとモヤっとすると思います。
そもそも、話して理解されない事を文字にして伝わるのかって話ですが(笑)
そんな話ですけど、よければご覧ください。
もちろん自慢でも無いし、出来てたら良いとか出来ないとダメとか、そういう話ではありません。
でも、私は、出来たら「楽」だと思ってます。
私は、大抵すぐにあきらめます。
今思うと、小さい時から割とあきらめられる方だったとは思いますが、今程早くあきらめられてはいませんでした。
もっと考えて、もっと苦しんで、相手・社会・法律・制度が悪いと思っていました。
あきらめるべきだと自分に言い聞かせている時間がもっと長かったです。
「あきらめる」と言うのは「やーめた」みたいに投げ出す事とは違います。
「自分が選んだんだから仕方ないよね」の精神です。
私は何事にも、こうあきらめます。
そして、こうあきらめれるようになってから、めちゃくちゃ楽に生きれるようになりました。
想像しにくいと思うので、例を上げます。
私は、中学の頃、不登校でした。
原因はイジメです。
イジメられている子と普通に接していたら、ターゲットが私に移ってきました。
身体に蕁麻疹が出て、毎朝お腹が痛くなり、学校に行くと更に痛みが増して、冷や汗をかきながら保健室に行った事が何度もあります。
最初にイジメられてる子も、私を避けるようになりました。
そりゃまたターゲットにされるのは嫌でしょうからね。
先生にも言いましたが「イジメられてる子と関わったからでしょ」的な事を言われました。
なぜ自分がこんな目に遭わないといけないんだ。
あいつらはおかしい。
それを注意しない先生はおかしい。
そう思いました。
でも、ある時ふと思ったんです。
『そんな奴らがいる学校に行ってるのって自分やん』
イジメは絶対にダメです。
イジメという言葉にせず、きっちりと犯罪名を言うべきだし、加害者は罰せられるべきだと思います。
でも、それとは別に、私は自ら被害に遭いに行ってるんですよ。
先生にも言った。
やめてくれとも言った。
でも止まらない。
どうして?どうして!?
いや、私が行くからじゃない?
ってなったんです。
イジメられるのは嫌でした。
でも、学校に行かなきゃイジメられません。
学校に行けない事とイジメられる事を天秤に掛けました。
そして、学校に行けなくても良いやと思って、学校に行かないという選択をしました。
父親は「それくらい我慢して行け」
母親は「そんな学校行かんでもいいよ」
母親は色ボケ不倫ゲス野郎ですが、こういう所は母に感謝したい。
まぁ、もし両親共に反対してたら、学校行くふりをしてどこかウロウロするだけですけど(笑)
こうして、学校に行かないという選択をして、不登校をしました。
不登校になってしまったんじゃありません。
自ら進んで不登校を選んだんです。
「加害者が悪い」と戦わない方が良い…という話ではありません。
先生や学校が悪く無い…という話でもありません。
イジメられる方にも原因がある…という話でもありません。
全てにおいて、選択権は自分にある…って事です。
戦うを選べば、怪我、ストレス、罰、買った時の達成感、負けた時の無力感…etc
これらは全て、戦うという選択をした事によって得られるものです。
戦わないを選んでも同じです。
悔しさ、平和、自由、敗北感、開放感…etc
どれを主に感じるかは人それぞれですが、戦わないを選択した事によって得られるものです。
どれを感じたとしても、自分で選んだ結末なんです。それは受け入れますよね。
これが「あきらめ」です。
イジメは悪いに決まってます。
犯罪です。
裁かれるべきです。
でも、そんな事で私は救われません。
相手が悪いとわかってたって、何人の人にあなたは悪く無いと言われたって、何の救いにもなりません。
でも、私は「学校に行かない」を選択した事によって救われました。
自分には多くの選択肢がある。
でも、選択肢があると気付いてなかったから、選択してなかった。
そして、選択してなかったから起き続きていた出来事なんだという事に、気付いてなかっただけなんです。
先日、妻と子供が事故に遭いました。
信号が変わったので横断歩道を渡り始めた時に、前方不注意の左折車に巻き込まれました。
もちろん、加害者が100%悪いです。
でも、相手が悪い!と言い続けるだけでは、こちらは救われません。
幸い軽傷で済みましたが、それでもかなりの不自由を強いられてます。
加害者が法的に罰せられても、仮に死刑になっても、私は納得なんか出来ません。
でも、私刑(タイプミスじゃないです)をした事によって私に課せられる罰を思うと、私刑は割に合いません。
なので、謝りにきた加害者(50代女性)を、インターフォン越しに追い返しました。
「謝罪は受け入れません。この先、顔を知らない男に恨まれてると思って生きて下さい」
と、私は言いました。
私の一言に、彼女に何のダメージがあるのかはわかりません。
でも、もしダメージがあれば、それは事故を起こした彼女の責任です。
仮に私の怒りが収まらなかったとしても、一発殴らなかった、殺さなかった、謝らせなかった、彼女の家族を同じ目に合わせなかった…など、何かスッキリする方法を試さなかった私の責任なんです。
怒りのきっかけは事故ですが、怒りが収まらないのは自分の選択の結果です。
自分で選んだったら、仕方ないですよね。
これがあきらめです。
目には目を…とした所で、被害者の目は返ってきません。
被害者はどうしたって被害者なんです。
でも、被害者でいるのは辛いんです。
被害者である自分を救えるのは、加害者への制裁や不幸じゃありません。
常に自分の選択でしか無いんです。
(一応言いますが、被害者と被害者ぶってるというのは別物です)
こういう考えから、私は全て自己責任だと思ってます。
過去に投資詐欺に遭った事がありますが、見抜けなかった私の責任です。
もちろん、詐欺師が悪いのは間違いありません。でも、そこに執着し続けていても何もありません。
お金が返ってくる訳でもないし、返ってきたとしても、反省をしなければ別のに引っかかるかもしれません。
そもそも、事故や事件なんていうのは理不尽なんです。
なんで私がこんな目に…と言ったって仕方ないんですよ。
でも、そう思っちゃいます。
私だって思います。
思わない訳ありません。
「あきらめるのが早い」というのは、そう思い続けてもしんどいだけだって気付いて、そして納得出来るのが早いって事です。
「あきらめたら終わり」じゃありません。
「あきらめてからがスタート」です。
この発想、私はずっと、私に出来るんだから皆んなにも出来るでしょと思って来ました。
そんな考えでいるからしんどいままなんだよってずっと思ってきました。
でも、先日友人に
「お前、それってブッダとかキリストとかそういうレベルの話ちゃうか?達観し過ぎてると言うか、言うは易しというか……いや、お前にしか無理やぞ。少なとも、そんな考えお前しか遭った事ない。俺には出来んわ」
と言われ、ようやく他人に理解してもらおうとするのをあきらめられました(笑)
私の中では、こいつならわかるだろうと思ってた奴だったので
『あ、こいつに通じないなら無理だわ』
と思えたんです。
まぁ、理解されなくても、この考えで楽なのは私なんだから、それで良いです。
周りの人に、そう思えば良いのに…とも、もう思いませんし、言いません。
「最初は無理矢理自分に言い聞かせてたけど、最近はなんかわかる気がする。確かに自分で選択してるんやもんなーって思う」
と、言い出してる妻は、私に洗脳されてきてるんでしょうか?(笑)
何書こうかなーと思ってる時に、先程の友人から
「全部自分の所為なんて、絶対に流行らん宗教やな(笑)」
と言われたのを思い出したので書いてみました。
確かに、誰かの(何かの)所為にした方が、一見楽に思えます。
でも、それってカレー味のウンコなんです。
美味しい猛毒なんですよ。
ちなみに「頭ではわかってるんやけど…」という人は何人もいましたが、わかっていたら出来る筈なので、こういう人はわかってません。
ただ、「知ってる」だけです。
と、あきらめきれてないかの如く、説明する私でした。
あー、スッキリ。
これであきらめきった。
多分。
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