読書「Yの悲劇」エラリー・クイーン
エラリー・クイーンの最高傑作と誉れ高いのが本作です。
「Xの悲劇」に続いて執筆された元舞台俳優探偵ドルリー・レーンが活躍するシリーズの第二作目です。
物語の中に、前作ロングストリート事件の話題が、ちょいちょい出てきます。
ワトスン役となるサム警視や、ブルーノ地方検事も引き続き登場。
レーンの住むハムレット荘の執事フォルスタッフや、メーキャップ係のクエーシー老人なども不動のキャスティング。
今でこそ、エラリー・クイーン著作となっていますが、発表当時は前作同様バーナビー・ロス名義です。
今回の事件は、ニューヨーク在住の資産家ハッター家で起こる殺人事件。
二月のニューヨーク湾にハッター家の当主であるヨーク・ハッターの死体が浮かびます。
彼は、二ヵ月前に失踪しており、警察に捜索願が出されていました。
死因は、青酸カリを服毒した後に、海に転落したもの。
煙草入れの中に遺書が残されていました。
「小生は完全に正常な精神状態において自殺する」
人々は口々に噂します。
ヨーク・ハッターは、あまりに異常なハッター家の人間関係に消耗しきって失踪し、ついに自殺をしたのだと。
残された遺書は、すべてを飲み込んだ上で死を選んだ哀れな当主ヨーク・ハッターの、「たった一文で書かれた小説」のようだとサム警視は形容します。
資産家ハッター家の家族たちは、そろいもそろって奇人変人ばかり。
夫人のエミリー・ハッターは、高圧的に家族を支配し、自分の意志に逆らうものは、家族でも容赦しません。
この家の莫大な資産を牛耳るハッター家の事実上の最高権力者でした。
ニューヨークの新聞読者たちは、この女傑を「鉄の心の鬼婆」と噂しています。
自殺したヨーク・ハッターは化学者であり、エミリーの再婚相手でしたが、彼女と夫婦関係を築くことはあきらめ、自室を化学の実験室に改造し、日々実験を繰り返していました。
二人の長女バーバラは詩人で、一家の中では一番の常識人。
長男のコンラッドは、粗野で狂暴な放蕩息子。
ヒステリックな妻のマーサとは夫婦喧嘩が絶えません。
13歳のジャッキーと4歳のビリーという二人の息子がいますが、この子供たちも、親の血を引いており、残酷で可愛いげがありません。
次女のジルは、濃いメイクアップで、夜の街を遊びまわる当時流行のフラッパー。
そして、エミリーの前夫との間に生まれたルイザ・キャンピオンは、聾唖というハンデキャップを背負った女性で、18歳の時からは聴覚も失っています。
しかし、夫ヨークとの間に設けた三人の子供には愛情のかけらも示さないエミリーは、このルイザだけは溺愛しており、一緒の部屋でベッドを並べて過ごし、なにかと面倒を見ています。
兄妹の不満は、このルイザにも、とげとげしく向けられます。
ヨークの死体がニューヨーク湾に上がってから二か月後、ハッター家で事件が起こります。
ルイザが日課として飲むはずだったエッグノッグを、やんちゃなジャッキーが奪って飲んでしまい、その後床をのたうち回って苦しみだします。
エッグノッグには、致死量を超えるストリキニーネが含まれていました。
ジャッキーは、すぐに吐き出したことで幸い一命はとりとめますが、ハッター家の面々は顔を見合わせます。
命を狙われたのは、ルイザであることは誰の目からも明らかでした。(三重苦のルイザ当人にはわかりませんが)
このルイザ殺害未遂事件の連絡を受けたサム警視たちは、その日からハッター家に張り付きますが、家の使用人や関係者も含め、徹底調査をしたにもかかわらず、なかなか犯人にたどり着けません。
サム警視たちは、ロングストリード事件を見事に解決に導いたドルリー・レーンの智恵を借りに、ハムレット荘へ。
そして、事件が再び動いたのは、さらに二ヵ月後でした。
またルイザが狙われたとばかり思ったドルリー・レーンでしたが、殺されたのがエミリー・ハッターと聞いて彼は驚きます。
エミリーは、ルイザが寝ているベッドの横で、犯人に何かで殴られ、そのショックで心臓マヒを起こし死んでいたのです。
凶器として使われたのは、なんとマンドリン。
そして、二人のベッドの間には、ナイトテーブルの上にあったタルカムパウダーが落ちて飛散しており、その上には犯人とおぼしき足跡がクッキリ。
ルイザは、ただならぬ気配に気づき、ベッドから起き上がります。
探った手で犯人の顔に一瞬触れますが、そのまま気を失ってしまいます。
ただ一人事件の現場にいたルイザは、翌日彼女専用の点字用具で警察に尋問を受けます。
視聴覚を持たないルイザでしたが、彼女には失われた感覚の補完機能として鋭敏に発達した嗅覚がありました。
その彼女が、薄れゆく意識の中ではっきりと感じ取った匂い。それはバニラの香りでした・・
はい、この辺りまでにしておきましょう。
読み終わったばかりですので、どうしても長々と語りたくなってしまいます。
話はちょっと本編から脱線いたします。
僕が人生の中で、最もミステリーにハマっていたのは、小学校高学年から、中学生にかけてでした。
多くの人がそうであるように、きっかけは名探偵シャーロック・ホームズ。
当時は、ポプラ社から発刊されていた児童書シリーズがありましので、これは全巻読破。
続いて、怪盗ルパン・シリーズを追いかけ、中学生になってからは、次第に一般向けの文庫にシフトしていきました。
マイブームとしてのミステリー熱はさらにヒートアップし、中学生になると、次第に読むだけでは飽き足らなくなり、探偵小説やミステリー漫画を書いてみたいという色気が出てきます。
いずれも最後まで書き上げた記憶はないのですが、いろいろと書き散らかしてはいましたね。
しかし、なんといっても中学生です。
殺人事件を描こうにも、人生でまだ人を殺した経験もなければ、殺人事件に巻き込まれた経験もありません。
胸のすくようなトリックも、そう簡単に思いつけるわけではありません。
当然そのネタ探しのつもりで、ミステリー小説を読んでいました。
中学生くらいですとまだ、分厚い長編本格ミステリーを一般書で読むだけの体力には欠けていたので、読むのはもっぱら短編から中編が中心になります。
さらに、これを最も手っ取り早く仕入れる手段として、当時は推理クイズの本も大いに利用していましたね。
藤原宰太郎氏の「世界の名探偵50人」「名探偵に挑戦」などは、トリックをクイズ形式で紹介してくれるだけでなく、推理小説の蘊蓄も学べたので繰り返し読んでいました。今でもiPadに忍ばせています。
そういったミステリー情報をまめに仕入れていると、本書「Yの悲劇」は、アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」や「アクロイド殺人事件」と共に、たいていは古典ミステリー・ランキングの上位にその名を連ねていました。
常々よほどの傑作なのだろうとは思っていましたね。
ちょっと気になって調べてみましたら、本作のミステリーとしての人気は、実は日本で突出しているんですね。
アメリカ探偵作家クラブの発表した「史上最高のミステリー小説100冊」には選出されていません。
ミステリーの本場イギリスにおいてもほぼ同じ扱いです。
はて? どうしてか。
「そして誰もいなくなった」や、つい先日読んだばかりの「幻の女」は、小説が発表されてまもなくハリウッドで映画化されています。
しかし、Wiki で調べた限りでは、この「Yの悲劇」を映画化したという記録はありません。
唯一、1978年にフジテレビ系列でドラマ化されているのみ。
映画化されない理由は、すぐにハタと思い当りました。
確かに、この小説の真相と衝撃の結末をそのまま映像化したら、間違いなく当時のアメリカ映画界の自主倫理規定(ヘイズ・コード)に引っ掛かりますね。
こういう、救いのない悲劇的な結末は、欧米ではなかなか受け入れられないのかもしれません。
日本ではこれが受け入れられるということになると、少々複雑な気分になります。
その意味でいうと、唯一日本で作られたドラマは、はたしてこのラストにどういう脚色がされていたか。
未見ですがちょっと気になるところです。
本作の結末に明らかに触発されたであろうミステリーを、頭の中では2作品思い浮かべられます。
どちらも傑作というよりはむしろ問題作。
後味も決していいという作品ではありません。
ドルリー・レーンが、シェークスピアの舞台劇俳優だったという特異な経歴を持つ素人探偵だったということは、本作の悲劇性と非常に相性が良かったという気もします。
いや、むしろそれを前提に創作されたキャラクターだったのでしょう。
シェークスピアといえば、なんといっても「ハムレット」「オセロ」「リア王」「マクベス」の四大悲劇が有名。
ドルリー・レーンは自らの隠居屋敷に、ハムレット荘と命名しています。
「ハムレット」はミステリーではありませんが、父を殺されたと思い込んだデンマークの王子ハムレットが、叔父と実の母に復讐をするという救いようのないドロドロとした物語です。
えエラリー・クイーン(発表当時はバーナビー・ロス)が、ドルリー・レイン4部作の構想を練るときに、シェークスピアの4大悲劇を下敷きにしたことは疑いのないところ。
物語の進行を、すべて舞台の場面に想定していることからも、作者が舞台劇の進行を意識しているのは明らかです。
本作においては、すべての場面が、ハムレット荘、ハッター家、死体置き場のいずれかの室内になっていることも、この作品を舞台劇として描いていこうという作者の趣向が、本作では前作「Xの悲劇」よりも徹底されています。
観客を前にして、シェークスピアの悲劇の主人公たちを朗々と演じてきたドルリー・レインだからこそ、本作のラストにはなんとか小説として、ギリギリの説得力とリアリズムを与えられたような気がします。
シャーロック・ホームズも、エルキュール・ポワロも、金田一耕助も、探偵としては、絶対にあの解決方法はとらないはず。
エピローグにおいて、ドルリー・レーンが真犯人の名前を告げようとするとき、サム警視が自分が犯人ではないかと思っていた人物の名前を二人挙げて、レーンにいずれも「違います」と退けられてしまいます。
この2名は、白状してしまえば、僕自身が読書を進めながら、犯人ではなかろうかと目星をつけていた人物でした。
サム! 君もか。握手。
しかし、エラリー・クイーンが、解決編において、くしくもこの2名の名前をサムに挙げさせたということはつまり、作者自身が本文中、意識してこの二名に読者の疑惑の目が向くように巧みにミスリードしていたと考えていいかもしれません。
結果、真犯人はそのいずれでもなかったわけですから、これは見事に作者の術中にハマったといっていいでしょう。
読み終えてみれば、確かに真犯人を示す論理的証拠は本文中にすべで提示されていました。
本格推理小説として、確かに見事な論理性はあります。
そしてその意味では、この事件の真相にたどり着いたドルリー・レーンの苦悩と葛藤はおおいに理解できます。
しかし、その結果、この悲劇の幕引きとして、ドルリー・レーンがとった行動は・・・
ここは、おおいに賛否が分かれるところでしょう。
「Yの悲劇」は、思えば中学生の自分が、一度は手に取りかけてやめた長編推理小説でした。
それからも、何度かその機会はあったように思いますが、結局本作を読了したのは65歳の夏。
気が付けば名探偵ドルリー・レインよりも、すでに齢を重ねておりました。
結論から申しますと、名作長編ミステリー数あれど、本作に限っては、中二病ド真ん中のあの危うい頃の自分の感性で読まなくて正解だったかもしれません。
もしも、その年齢で、本作の世界にのめり込んでしまったらと考えるだけでも恐ろしい。
クワバラクワバラ。
少なくとも、名探偵ホームズや、怪盗ルパンの延長で読むべきミステリーではないというのが正直な感想です。
エッチなシーンも、グロいシーンも一切登場しませんが、本作には最低でもR15指定は必要かもしれません。
現在愛のない家庭にいらっしゃる方は、本書を読む際には是非ご用心ください。