夢みたいな記憶
昔の記憶を語ろうと思う。なぜ語ろうと思ったかは、先ほどまで日本酒を一本呑み、ご機嫌だからである。今日飲んだ日本酒は秋芳。山口に旅行に行った時に購入したものである。とても飲みやすいが、僕にはもう一つ深みが欲しい。因みに一緒に呑んでいた弟はうまいと言って普段呑まない日本酒をくいくい呑んでいた。
私は、身内のお葬式に行った事がない。正しく言えば、3歳くらいの時に一度行った記憶がある(しかし、はっきりとは覚えていない)。母方のおじいちゃんの母親、つまり曾祖母にあたる方のお葬式である。しかし、不思議な事に、この3歳くらいの時の記憶を家族、特に母親に話しても誰もそんな所に連れて行った覚えがないというのだ。でも、僕の記憶の中では、はっきりと遺骨を取り上げた記憶がある。あの時の静けさ、周りの建物の病的なまでの白い様は、具体的には言えないにしても、語ることはできる。
僕は、曾祖母らしき人を2回見たことがある。一度は病室、窓から緑色の綺麗な芝生が見える心落ち着く病院で。もう一度は夢の中で。しかし、そこで出会った曾祖母はどちらも目を閉じて寝ていた。何か伝言を遺す素振りも見せなかった。3歳だった僕は、曾祖母は死ぬのかとただ漠然と思うだけだった。友人が死んだ時とは比べ物にならないくらい薄い感情しかなかった(そんな抽象的で、言葉にできない物が今でも思い出せる)。
村上春樹の作品『一人称単数』の中に収録されている短編小説の一つに、『品川猿』という話がある。村上春樹が宿泊したある古びた温泉宿に、人間の言葉を話す猿が現れる。その猿は温泉で村上春樹の背中を流したり、風呂上がりにビールを一緒にするまるで人間のような猿である。その猿と過ごした一夜はまるで夢のような感じだったと村上春樹は手記していた(僕は、説明が下手くそなので、この話をうまく簡潔にまとめてくれる人材を求む)。もちろん現実世界で猿が人間の言葉を話すなんて、99.9%有り得ないだろう。でもこの話を読んだ時、僕にはどうしても、3歳の頃の記憶が頭に浮かんだ。
実は最近、記憶している事と違う事がもう一つ起きた。僕の小学校では、卒業すると同時にタイムカプセルを埋めていた。それを10年後に掘り起こして、中身を見て楽しむ事を小学校の卒業の時に約束していた。そして、2021年がその年だった。当日、僕はお伺いできなかったので、後日引き取りにいくというので、当時の担任の先生の所へ訪れた。1週間前の出来事だった。僕は当時の担任の先生が務めている学校を訪れた。聞いた第1声は、「君の物はどこにもありません」。僕は困惑した。
「君の名前が書かれた物はもう私は保管してないね。」
「確か、カードゲームだったような気がするんですけど…」
「ないですね。君は確か、サッカーをしていたよね?サッカー少年がいかにも使いそうなクリアファイルは3枚あるんだけど…」
なぜ、サッカー少年が使いそうなクリアファイルだけ3枚あるのかは分からないが、心当たりがない物を貰うのは気が引けるので、担任の先生にご挨拶だけして帰った。
僕は、デジャヴみたいな経験をよくする。初めて行った場所に、なぜか懐かしさを感じてしまう。もしくは来たことがあると。小学校の時に、よくその話をした。夢で見た事が現実に起きる、いわゆる正夢ってやつをよく経験するんですと。そしたら、「じゃあ、君がサッカーの大会で優勝する夢を見たら優勝できるね」って。僕は生まれて一度もサッカーの大会で優勝する夢を見ていない。だから、僕が在籍していたサッカーチームは一度も優勝はしていない。
心理学的に見ると、僕のこういった経験は疲れているからだという。(どこからか聞きかじった事なので、概ね間違えているだろう。)でも、このよく分からない、幻聴じみた、気持ちが悪い経験を僕は割と楽しんでいる。それは現実離れした事で、誰にも味わえない感じ。まるで、新海誠作品のワンシーンを経験しているような、贅沢な経験をしていると勝手に思い込んでいる。