対話の手段を増やすことは、自分との対話も豊かにしてくれる
もし、世界に音がなかったら
私たちは自分の思いや考えを他人に伝えることができるだろうか。
先日、竹芝のダイアログ・ミュージアム「対話の森」が開催しているダイアログ・イン・サイレンスに行ってきた。
音のない世界で、言葉の壁を超えた対話を楽しむエンターテイメント、
それがダイアログ・イン・サイレンス。体験を案内するのは、音声に頼らず対話をする達人、聴覚障害者のアテンドです。参加者は、音を遮断するヘッドセットを装着。静寂の中で、集中力、観察力、表現力を高め、解放感のある自由を体験します。
(ダイアログ・イン・サイレンス公式サイトより)
行きたいと思っていたところ、別の大学の友人から「今度ゼミで行く予定だ」という話を聞き、私も混ぜてもらった。
ヘッドフォンを装着し、扉を開くと、アテンドの方が出迎えてくれた。
聴覚障害者?
扉を開いた先に立っていたアテンドの方は、聴覚障害を抱えているようには思えなかった。
逆に、聴覚障害を抱えていそうな人ってどういう人だよ、という話だけど。
彼の障害は目には見えない。
これまでの人生で、聴覚障害を抱えている方とはあまり会ったことがないと思っていたが、本当は会っていたのかもしれない。
本当は会っていたけれど、きっと気づいてこなかっただけだと思った。
目の前にいる人が、障害を抱えているかもしれないと想像することをしてこなかった自分に気づき、反省した。
会場内にはいくつか部屋があり、その中で参加者同士の対話が必要なあらゆるプログラムが用意されていた。
静寂の世界の中で、みんなで協力して一つのものを作ろうというものや、目の前にあるものを表情だけで表現しようというもの。
私たちが当たり前に使っている口語は、
音のない世界では「無」となる。
手話を習得していない私に残された対話の手段は、
「表情」と「身体の動き」だった。
はじめのうちは特に、頭の中が「恥じらい」と「わからない」でごっちゃになって、思い通りに顔も身体も動かせない。
口語を失った私は、自分の思いも考えも、他人にちゃんと伝えることはできなかった。
自分がどれほど口語に依存していたか、
そして「自分は伝えた」ということに満足して、
「相手に伝えよう」ということをどれほどサボってきたかに気づかされた。
徐々に音のないコミュニケーションに慣れてくると、
私は1つのことに気づいた。
例えば、
⑴「面白い」と表情も身体も動かさずに口語だけで言う
⑵「面白い」と笑って言う
⑶手を広げながら「面白い」と笑って言う
という3つを比較すると、⑴よりも⑵、そして⑶の方が、相手にその気持ちが伝わりやすいのは言うまでもないだろう。
でも、感覚の矢印を自分の身体に向けてみると、口角をあげて「面白い」と伝えた時、心が一瞬パッと明るくなるのがわかる。
さらに手を広げて「面白い」というと、心が解放されたような感覚になってなんだか本当に面白くなってくる。
つまり、口語や表情、身体の動きなどより多くの手段を使って対話をすることは、相手に「面白い」をより伝えられるだけでなく、自分も自分の「面白い」という気持ちをより感じることができるのだ。
あらゆる手段を使って対話をすることは、他人との対話だけでなく、自分との対話も豊かにしてくれることに気づいた。
自分の「面白い」という気持ちをより感じることができても、お金はもらえないし、成功をするわけでもない。
でも、心が豊かになると思った。
最近、コロナの影響で日常的にマスクをするようになって煩わしい反面、楽になったと思うことがあった。
コミュニケーションにおいて、表情を動かすという手間が省けるようになったからだろう。
嫌な言い方だけど、誰かとのコミュニケーションで表情や身体の動きを使うことは、どこか相手のための自己犠牲のように考えていたのかもしれない。
バイト先に出勤した時、真顔だろうが笑顔だろうが、あまりわからないだろうと思って、口語だけで「おはようございます」を済ませていたりした。
でも、表情や身体の動きを使ってコミュニケーションを取ることは、相手のための自己犠牲ではなくて、相手と自分へのサービスなんだと思う。
対話の手段を増やすことは、感じ取れる世界を広げてくれる。
英語を話せれば、英語圏の人々と話せるようになるし、
手話ができれば、聴覚障害を持つ方とよりスムーズに話せるようになる。
そして、表情と身体を使って話せば
他人とも自分とも、うまく話せるようになる。
英語も手話も覚えたいけれど、
まずは自分がすでに持っている表情と身体の動きを使って、
他人とも、自分とも、対話を楽しんでいきたいと思った。