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枝分かれする道を選ぶのではなく、より流れの豊かな支流を感じとる

人は常に選択を繰り返している。
何を食べるかといった小さな選択から、人生を変えてしまうような大きな選択まで。
すぐに決めた選択がぴったりハマる時もあれば、悩んだ末に決めた選択が後々になって間違いだったと感じることだって、不本意ながらよくある。

手続きとかメンテナンスとか日常のささいなことには長年生きてきた経験則が活かせるようになってきたとしても、年をとっても悩みは尽きない。

「よし、この道を進もう!」と決めた後で新たな別の道を思いつくこともよくある。それは道を決めて行動を起こしはじめたことで、はじめて見えるようになった新たな道。視野が少しばかり拡大する感覚。
その時々で状況は異なると思うけれど、どちらかを衝動的に選ぶこともある。慎重に考えて決めることもある。
でも、どちらでも確信が持てないとき。

そんな時に自分が無意識にしていたのは、「どちらの方が自分を拡大させられる感覚があるか」を感じとることだった。

どちらかを選ぼうとするとき、「道を選ぶ人間」ではなく、「水路を選ぶ魚」みたいな気持ちになること。
「目の前に現れた道」だと思うから、すでに見えているものだけを気にしてしまう。

自分は魚で、川の中を泳いでいる。目の前には二股(あるいはもっと)に分かれた水路がこちらに向かって流れていて、その水路は目には見えない。もしくはその魚は目が見えない。
その水路に入ったらどんな気持ちになるか。選択肢を一つずつ想像して、確かめていく。
水の流れのような大きな豊かさを感じるか。
自分が小さな枠にはめられてしまう感じはしないか。
そのことを思いうかべたときに体が心地よく共鳴するか。
息はしやすいか、想像したときに体がこわばらないか。
わくわくするか。
そして何より、そこに居たいと思えるか。
大体直感で、どちらを望んでいるのかはすぐに分かる。

私の体はわがままだから、望んでいないことを我慢して行うことには耐えられない。耐えられなさを授かってしまっている。
本心で望んでいない道が選べなくて、途方に暮れることもあるくらいに。
でも、そのおかげで分かることもある。

選ぼうとしていた道が、自分がやりたいと思い込んでいたことが、本当は全然やりたくなんてなかったことにも。
自分の気持ちよりも「体裁が良い」とか「現実的」とか、そんな曖昧なものを優先させていたことも。
そこまで体感した後には、頭が心に勝てた試しなんてない。

私はそのことについて、理性が欲求や開放性に勝てないことについて、喜びと絶望の両方の気持ちを受けとる。

人は忍耐強いから。多少の荒れた道なら、「こんなものか」「仕方がない」と言って、受けいれてしまうかもしれない。
だけど魚は違う。苦しい水の中では息ができない。
そのことの喜びは、簡単には言葉にできない。

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水筒鯨
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