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カッコーは他界からの使者?

吉野の峠

大和やまとには 鳴きてからむ よぶ鳥 さきの中山 呼びそゆなる

巻1の70 高市たけちの黒人くろひと 
太上だいじょう天皇(持統天皇)吉野宮よしののみやみゆきししとき高市たかいちのむらじ黒人くろひとの作れる歌   

一般訳
大和には鳴いてから来たのだろうか、カッコーがわが子を呼びながら、象の中山を越えようとしている。

解釈
太上天皇が吉野に行幸したさいに、高市黒人が詠んだとされています。「太上」とありますから、持統天皇が皇位を孫の軽皇子にゆずったあとの吉野行ということでしょう。

まず目をひいたのは、「中山」という地名でした。身近に知っている中山という町の山中に高天原といわれる火葬場があって、そこで愛犬のドーベルマンを火葬してもらっていたので、すぐに野辺の送りをイメージしました。

一般的には中山をとくに意味のある地名として捉えてはいないようです。象の中山の「象」を先祖の霊が山中他界に入る突端、この世ならぬ場所への架け橋と見立ててみれば、中山という地名が他界的な性格を帯びた土地だということが見えてきます。

持統天皇は即位する前後から、ひんぱんに吉野に行幸していますが、それはなんのためだったのでしょうか。かつて、夫の大海人皇子おおあまのみこ(のちの天武天皇)が、皇位継承争いを避けて隠棲したゆかりの地というだけでは、10年たらずのうちに30回あまりも山深いこの地を訪れている理由にはならないでしょう。

夫の天武天皇は在位十数年で、たったの一度しか吉野に行幸していません。このとき息子の草壁皇子、大津皇子、高市皇子、刑部皇子と、甥(兄・天智天皇の子)の川嶋皇子、志貴皇子を同行し、『六皇子の盟約』がかわされたといいます。壬申の乱のような皇位継承をめぐる惨劇をくりかえすことがないように誓いあわせたのです。

ところがその盟約も虚しく、大津皇子は皇太子の草壁皇子への謀反の嫌疑をかけられて処刑され、その草壁皇子は早世。そのため持統天皇のまわりで皇位継承をめぐる血なまぐさい事件は跡をたたなかったといわれます。
そんな過去があったせいでしょうか、先の香具山の歌でも解釈したように、持統天皇には鎮魂への強い思いがあったのではないでしょうか。それで慰霊のためもあって折々に吉野という霊地を訪れていた、と考えてみたのです。

鎮魂という側面からこの歌を鑑賞してみると、二句目の「鳴きてか来らむ」が「亡きて隠らむ」あるいは「泣きて隠らむ」とも読みとれることに気づきます。
万葉集の原文では「鳴而興来良武」とあてられていますから「」で切って「隠らむ」とも読める。「鳴きてか来らむ」とすれば、「泣いて来たのだろうか」となりますし、「泣きて隠らむ」と読めば「無念のうちに死んだ」と解釈できます。

象の中山を、わが子を呼びながら越えようとしている呼子鳥。その鳴き声はまた、持統天皇へと向けられていたのたかもしれません。死を告げる鳥といわれるカッコー。持統天皇もみずから神隠れることを覚悟し、吉野の自然のなかで厳かに死を受け入れようとしている。そのように映ったのかもしれません。

いまは他界にある魂たちに呼びかけながら、幽冥界へとつながる峠を越えようとしている太上天皇。その姿は諦観をおびた清々しいものだったのでしょうか、それとも哀れな老残だったのでしょうか。

直感訳
大和の祖霊の山には、悲劇のうちに死んでいったものたちが隠れ、安らかに眠っていることだろう。いま太上天皇が慰霊の念とともに、幽明界をつなぐ峠を越えようとしている。みずからの死出の旅を思いながら。

(禁無断転載)


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