方言のイメージ

「東北弁喋る人って素朴な感じがする。ヤクザとかいなさそう。」
妻と話をしていた時に、妻からふと出た言葉。
少し前に私が書いた台本に郷里の方言をしゃべるキャラクターを登場させた事があるのだが、方言を喋りながら他人を問い詰める様な話で、読んでもらった時の感想は「怖い」だったのだけど、その「怖い」の根底はここにあったらしい。
素朴そう、純朴そうなイメージの言葉をしゃべる人が他人を問い詰めるから怖いと。
なるほどと思った。

実はこの台本を書いた時点では、そういう効果を狙って方言を使ったわけではない。
私が方言を使ったのは会話劇の一要素としてだ。
会話劇、特に1対1の会話劇の場合、カードゲームみたいな部分があって、始まった時点で互いに持っている情報の量や質に大きなギャップがあるのが、カードを出していくように会話を積み重ねる内にそのギャップが変化していく、この変化自体が見せ場になるわけだけど、一方だけが強かったり、ただギャップが埋まってしまうだけだとつまらない。
理想なのはギャップを埋めていったはずがより一層大きなギャップが現れる様な展開が好みだけど、これはこれで大変難しい。情報内容の選定や出す順番をよくよく考える必要があるし、なにより、それだけにこだわると「ただ喋っているだけ」になってしまい、これまた演劇としては面白くない気がする。

そこで、言葉の情報だけで無い要素、仕草や行動、状況変化などを要素として組み込んでいくわけだけど、その一要素として方言を加えた…つもりだった。
が、それが妻にとっては素朴さ→怖さにつながったわけだ。
面白い。

思えば、東北弁に限らず、各地の方言にはそれぞれイメージが有る。
個人的なイメージで言えば、大阪弁といえばお笑いのイメージが強いし、京都弁といえば落ち着いたイメージがある。博多弁は熱い感じだし、広島弁といえば仁義なき戦いだ。
でもこれは結局他所から見たイメージであり、それぞれの地域の方たちが感じる自分たちの言葉のイメージはまた全然違うのではないだろうか。私にとっての東北弁がそうであるように。

これは多分、方言にとどまらないと思う。
中国語や韓国語、英語やフランス語などの各地の言語に関してもあるだろうし、一つ一つの言葉についても、所属しているコミュニティ内の人とそのコミュニティ外の人ととではイメージが違うなんて、よくあることだろう。
落語の「こんにゃく問答」なんかはそうしたズレを活かした良作だ。

そうしたイメージのギャップは、自分一人では気づきにくい。
畢竟ギャップは我と彼の間にあるものだから。
イメージのギャップを表現の中に活かすためには、色んな人達と接し、感じ取って行く必要があるんだろうなあ…。orz

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