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高身長で赤あざのある私:1. 生まれてから幼少期について

これからしばらくは、自分のこれまでの人生について、主にアザに関しての思い出を中心に幼少期から現在までを書いていきます。
他の人と見た目が違って、生きづらさを感じている当事者や、当事者のご両親などに何らかのヒントや励ましにでもなれば幸いです。

なお、私が生まれたのは40数年前ですので、その頃はまだレーザーなどの有効な治療法がなかった時代の話しです。ドライアイスを当てるとか、ナイフで切って血を出し切る、とかの今では到底考えられないようなことをしたようで、いまでも腕には切り傷が幾つか残っています。
でも治療についての話しはまた別の機会にします。

■ 誕生から幼少期まで

 40数年前、地方の小さな街でまだ雪もちらつく晩冬に、三女として私が生まれました。生まれてしばらくはこの大きなアザのせいで母が絶望し思い詰めて何かやらかすのではないかと、父は夜中に心配で私と母が眠る寝室をこっそり何度も覗きに来たと、のちに大きくなってから聞かされました。

 また、母方の祖母は胎盤をアザに擦り込むと、アザが消えるという昔からの迷信(笑)を信じていて、祖母の許可なく胎盤を処分してしまった病院に猛烈に抗議したそうです。

 母がその時私をみてどう思ったのかは聞いたことがありません。聞くのに少し勇気が要ります。上記の2つの話しは母から聞いたことですが、母自身がどう思ったのかは、私がどういう形で聞いても、母を傷つけそうな気がして聞けていません。

 ちなみに私は母に謝ってほしいとか、申し訳なく思ってほしいと思ったことは一度もありません。ほかの当事者の方はどうおもっているのでしょうか・・・。一度くらいは親を恨んだりするものでしょうか。

 アザがあるがためにいろいろと大変な思いをしてきたことは事実ですが、私はアザがあるのは母のせいだと思ってはいなかったですし、母が悲しい思いをするのを見たくなかったということがあります。(という当事者もいることを親御さんに知ってもらいたいです。)

 アザのことで辛いことがあったときには、母に話しにくくて、辛いから話したいのに話せないと、二重に辛かった記憶があります。時々、小学校で男の子からアザについて嫌なあだ名をつけられたことなどもありました。
辛かったことがあったとわかってほしいという気持ちで、やっと勇気をだして母に話した時は、ただ抱きしめて私の悲しみを一緒に共有してほしかったのですが、母は私にそんなことで負けない強い子に育ってほしかったらしく「そんなこと言われても負けるな!もし困ったら〇〇君に助けてもらえ。」と幼稚園時代から私を知る腕っぷしの強い男の子の名前をだして勇気づけるだけでした。それで私は何かあっても我慢したり、と精神的に強くはなりましたが、本当はそうではないのに無理に強い子であるふりをする癖がついてしまったのかもしれません。

結局、どちらの方法が良かったのかはわかりませんが、母が私の困った状況というのを本当に理解してくれているような気がしなかったことは事実で、すっきりしなかったことを覚えています。

でもやっぱり、まずは辛かったね、と泣いている私をぎゅっと抱きしめてほしかったかな・・・。

私がいつ自分が他の子と違うということに気が付いたかというと、小学校に入るころからのような気がします。私は覚えていないのですが母によると、母の知り合いなどに街で会ったりすると、アザのある腕を背後に回して見せないようにしていたそうです。そんな小さな頃から隠したいと思っていたのですね。

しかし母は私を普通の子どもと同じように半袖も水着も着せていました。小学校まではそれでも私はあまり気にしていなかったように思います。辛かったのは思春期からでした。

次回は中学以降について書いていきます。

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