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映画「LAMB/ラム」

#映画感想文
(見た人向け、ネタバレありますご注意ください)

アイスランドの辺境で、その生き物はアダと名付けられた。
羊飼いの夫婦が亡くした小さな娘から譲り受けたその名前は、漢字をあてると「徒」になると気付いたのは、映画を見終わってからのことだった。

山岳信仰とでもいうのだろうか。
日本の山には人間が立ち入ってはいけない場所があって、山でしか使わない忌み言葉があるそうだ。
山のこちら側が俗世だとしたら、あちら側は異界なのだろうか。

マリアとイングヴァル。子供を諦めざるをえなかった夫婦は、羊の腹から生まれた仔を人間として世話をする。
頭は羊、体は人間という異形の者にミルクを与え、子守歌を歌って沐浴させ、離乳したら同じ食卓で同じものを食べる。

観客は、そんな妻を受け入れられないイングヴァルと同じ視点で彼女を見る。静かに狂っている、もう子供を産むことのできない若くはない女。
お気の毒に。私たちはそう思う。だけど彼女に訪れたのは元のアダを喪ってから初めての安寧な時間だったのだと思うと、なんとも言えない気持ちになる。なんとも言えない気持ちはやがて夫のイングヴァルも巻き込んで、かりそめの幸せを作り出す。

エンドロールに流れたサラバンドに、なんだかものすごく「私たちは正統です」と訴えられたような気がした。
うまく言えないけど、何もかもが異質だったから最後のヘンデルでそう思いたかったのかもしれない。
あるいは、しつけと称して子供を虐待する親の言い分に対する憤りに似た何かがあったのかもしれない。

だけどアダの本当の母親はマリアではなくて、羊なのだ。
望まぬ相手(異種族)の子供を妊娠させられ、産み落とした仔へ初乳を与える間もなく人の手にとりあげられた母羊。
本能的に生かしておいてはいけないと思ったのか、嘆くようにアダの眠る窓辺の外で鳴き続け、我が仔をさらって川に投げ込み、挙句の果てにマリアに銃殺されてしまう。

愛情をもってアダを育てたマリアとイングヴァル、アダの可愛さにすっかり降参していろんなことを教えるイングヴァルの弟ペートゥル。
サッカー観戦のシーンのように、幸せで楽しい時間がひとつもなかったこの母羊から見た世界こそ、ホラーだったのではないだろうか。
言葉を持たない羊の瞳のなかに、望まぬ形で母親になったしまったものの哀しみを見たような気がした。

それにしても、山を越えてやってきた半身半羊のい異形の者は、いったい何を思って山を越えてきたのだろうか。
夜、音もなく忍び込んで羊を一匹孕ませて、気づかれることなく山に帰っていったことを思えば、人に危害を加えるつもりはなさそうだ。
本気で自分の子孫を残すつもりであれば、殺されるかもしれない異種族(つまり人間)に見つかるような真似はしないはず。雌羊をさらっていくか、産み月になったら再び戻ってきて子供だけをさらっていけばいいだけのこと。その際、邪魔が入れば羊飼い夫婦を殺したっていいのだ。家ごと乗っ取れるのだから。

だけど彼はそうしなかった。
なぜだろう。
私は思うのだ。もしかしたら彼は、他者に子どもを託すことで自分の未来を信じたかったのではないだろうか。
人間の家に生まれた異形の子供は、生き延びるかもしれないし殺されるかもしれない。
だけどもし生きていたら…長く続いたであろう孤独な生活の果てに、そんな希望を持ちたかったのではないだろうか。
ラストで、アダの手を引いてゆっくりと帰ってゆく後姿を見ていたら、そんなことを思ってしまった。

いずれにしても、アイスランドの辺境にいびつな二つの親子の姿があった。子供は一人しかいなかった。

どんな世界でも、大人の事情に振り回されて不利益を被るのはいつも子供だ。
真綿でできた箱庭の、実を結ばなかった幸せが山の向こうに消えていく。
消えていったその先に何があるのか、私たちは誰も知らない。

どうかこの先アダちゃんが、人のもとで暮らした優しい時間を覚えていますように。できればこの先も幸せに暮らせますように。
そう祈ることしかできない。


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