見出し画像

富を生み出す錬金術 賢者の石の秘密

皆さん、できるだけたくさんのお金が欲しいですか?

ほとんどの方の答えは「イエス!」だと思いますし、もちろん、私だってそうです。

中には「世の中、お金がすべてじゃない!」と真面目に反論するタイプの人もいるでしょうが、こうして文明社会で生活している以上「お金が重要である」という事実から逃れることは誰にもできません。そもそもお金と別の種類の物を比較して「どっちが大切か?」と議論すること自体が無意味ではないでしょうか?お金を使って生活を営む場において、お金に代わりになるものは存在しないのですから「お金がたくさんあるほうが便利」であることは間違いないはずです。

お金を支払わなければできない貴重な体験が世の中にはたくさんあるでしょうし、子供に充分な教育機会を与えるためにも、ある程度のまとまったお金は必要です。

宗教団体だって、ボランティア組織だって、NPO(非営利活動法人)だって「お金がなければ運営できない」という事実に違いはないのです。

つまり「人を助けるのにもお金がかかる」のですね。

日本のような自由主義経済の国において、お金を稼ぐための機会は誰にでも均等に与えられているのですから、それはとても「平等な社会システム」とも言えますよね?少なくとも「稼ぐチャンスが万人に解放されている」という意味においては公平であるように思えます。

一昔前までは「生まれながらの身分」がすべてであり、どんなに能力がある人であっても「下層民は死ぬまで下層民のまま」でした。

ところが、18世紀にイギリスで始まった産業革命以降、低い身分の生まれの者であっても「お金を稼ぐ能力さえあれば人々の上に立てる」という新しい社会環境が整備されたのです。

現代において保有財産の規模はそのままその人の「社会的な地位」を象徴し、多額のお金さえ持っていれば、多少人格的に問題があっても「社会的に尊敬される」という風潮が生まれました。トランプさんみたいなハチャメチャな性格の人が大衆に受け入れられてしまうのは、彼が経済分野において突出した「成功者」だからなのです。

その「経済力による新たなる身分制度」は、イギリスから分離独立したアメリカ社会で「多額のお金を教会に寄付をした人は、より神様に愛される」と考えるプロテスタンティズムと結びつきました。つまり「お金をたくさん寄付できる人こそが神への忠誠心が強い人」という宗教観の誕生です。お金持ちは、神から与えられた「義務」を果たした立派な人物だと見なし、それだけで尊敬の対象になるんですね。

実際、アメリカ歴代大統領を見ても、そのほぼ全員が「お金持ちの家柄」であることが分かりますよね?

充分な資金力を持たない人は選挙に出ることさえできませんが、プロテスタント系のアメリカ人はこれを「お金という客観的な判断基準によって神が立候補者の選別をかけている」と見なすので、そのシステム自体が「正当なモノ」として受け入れられてしまうのです。

ただその一方で、旧教(カトリック)の信者を中心に「お金は汚いモノだ」とか「お金持ちが天国の門をくぐるのは、ラクダが針の穴を通り抜けるよりも難しい」という思い込みに縛られている人も一定数存在します。心理学的には「お金のメンタルブロック」と呼ばれる「金銭に対する潜在的な嫌悪感」ですが、このようなお金に対する否定的な思い込みが私たちを「無限の宝庫」から引き離してしまう最大の原因にもなっています。

近代の歴史においても一時債務不履行になりかけたイタリアはカトリック、経済危機に陥ったギリシャは東方正教会です。要するに「清く、正しく、質素に」を理想とする宗派ほど「経済面が弱い」という特徴があるんですね。

つまり「お金を汚いモノだと見なす人は決して経済的に豊かにはなれない」ということです。

それはまるで「大嫌いな相手と結婚する」ようなものですから、どう考えても無理なんですね。

確かにこの世の中には汚職や不正によって金銭を得ている人もいます。だからと言って「お金を稼ぐことそのものが悪」ということはないはずです。

お金は政治家への賄賂にも使えますが、同時に愛する子供たちへクリスマスプレゼントを買うためにも使えます。お金を「悪」と見なすのは「包丁は人を傷つける危険があるから全面的に規制する必要がある」と言っているのと同じぐらい愚かなことなんですね。

インドの聖者ラーマクリシュナは「諸悪の根源は金と女」と口癖のように語っていましたが、彼が言おうとしていたのは「お金や性欲に執着し、その奴隷になることの愚かさ」であり、別に「金儲け自体がいけないことだ」と言っていたのではありません。

問われるべきは、どのように稼ぎ、どのように使うかだけです。

お金は「交換の手段」として天から与えられた便利な道具であり、人間の身体で言えば酸素と二酸化炭素を循環させている「血液」のようなものです。

「血液は汚いモノだから自分には必要ない」と宣言する人がいたら、あなただって「この人はオカシイ」と気がつきますよね?

最近では「できるだけ少ないお金でシンプルに生活するミニマリスト」という生き方が流行っているそうですが、それは一種の「貧血状態」みたいなものですので、それが「理想的で崇高な生き方」だとは思いません。

修行目的の僧侶が「無所有」を貫く分にはいいですが、我々一般人がワザワザそんなことをする理由はありません。

スティーブ・ジョブズみたいに「超お金持ちだけど生活自体はとても質素だった」というのならカッコいい生き方ですが、「もともとの収入が少ないからミニマムに生きる」のでは、ただの「貧乏人の苦しい言い訳」のように見えてしまいます。

それはただ「お金がないから仕方なくそうやっているだけ」であり、そこに思想や哲学があるわけじゃないんですね。

私たちは神から与えられた正当な権利として「充分に満たされた豊かな生活」を送ることができます。そしてその余剰分を税金として納めることによって、子供や老人などの「社会的弱者」を間接的に助けることもできますから、プロテスタントの人々が言うように「お金持ちは、ただ存在しているだけで大きな社会貢献をしている」のですね。

ここから先は

12,841字
この記事のみ ¥ 500

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?