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おじちゃんの死についての記録

この文章は2017年の元旦に書いたものです。

人の死について詳しく書いている文章なので、苦手、不快に思う方は読むことをおすすめしません。


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自分が2017年を迎えられたことに感謝している。
元旦、早朝の山手線に乗って、竹芝から日の出を眺めている時に感じたことだった。

昨年自分にとって、とても近しい人が亡くなった。続柄で言えば祖父の妹の旦那さんだった。自分はその人のことを「おじちゃん」と呼んでいた。ただこの文中では「おじさん」と呼ぶことにする。直接的な血縁関係ではない親戚なのだが、自分が生まれる前から隣の家に住んでいて、幼少期はとにかくその人と遊んだことばかり覚えている。

子供のいないご夫婦だった。そしてとても上品なご夫婦だった。そのおじさんは自分にとって祖父のようであり友達のようであり父のような人だった。
おじさんとは二人で近所の川沿いへ散歩に行くのが日課だった。そこで川を眺めたり鳩に餌をあげたりしていた。
おじさんとはよく気が合った。あまりおしゃべりでなく、余計なことは喋らない、一匹狼のような性格だったと思う。自分は父方の賑やかな親戚の集まりが苦手で、場の空気に耐えられず、親戚のお家の庭へ出ると同じくそのような場が苦手であったおじさんが庭に出てきてなんとなく一緒にいてくれた。記憶がほとんどない頃から、よく面倒を見てもらっていたらしい。とにかく一緒にいることがあたりまえだった。


自分はおじさんとおばさんの家へ毎日のように遊びに行っては夕飯をごちそうになっていた。おばさんは料理がとても上手で、綺麗好きで、芸術を愛してよく部屋に花を飾っている人だった。いつもあたたかく優しかった。隣の家のご飯は美味しく、居心地もよかったので小学校に上がる前から小学校高学年何年の間はほぼ毎日だったと思う。夕飯を食べた後は決まって居間の立派なソファにではなく、絨毯の上に座布団を敷き、ガラスのローテーブルで絵を描いていた。私がよく絵を描くので、おばさんは新聞に挟まっている裏が白紙の広告紙をためいてくれた。その時に背中が丸まってしまうので姿勢が悪くなる、とおじさんに何度も注意されていた。背中に定規を入れられたこともあった。大体一時間くらい絵を描いたあと家に帰っていた。そんな感じでお世話になりすぎていたので、母がいつか隣の家の子になっちゃいなさい!と怒ったこともあった。なってもいいなぁと子どもながらひっそり思っていた。
おじさんは定年退職していたが、数学教師だった。どこかの学校の教頭もやっていたという話を聞いたことがある。自分も、自分の兄弟も勉強をよく見てもらった。中学受験を合格できたのも、高校を卒業できたのも、おじさんが根気強く自分に勉強を教えてくれたからだと思ってる。

自分の記憶が朧げな頃からずっと隣に住んでいて、いつでも会えていたので、ずっといつまでも居てくれるような錯覚を持っていた。小さいときふとしたときに考えていたことがあった。自分が大人になって、社会人になってもし誰かと結婚などしたら一番に喜んでくれそうだなと。結婚式に出席するおじさんとおばさんの姿を想像していた。そんな日が訪れると、なぜか本当にずっと信じていた。

雪の日に家の前でおばさんが転倒し腰を悪くした、そこからが早かったように思う。おばさんはほぼ寝たきりになり家事全般をおじさんがすることになっておばさんが小さな病院に入院しおじさんは決して近くない距離のその病院へ毎日お見舞いへ行った。隣に住んでいた我が家にできることはないかと両親は援助しようとしたが人に干渉されることを好まなかったおじさんはいつもなにも困っていないと返事をしていたという。いつも綺麗な身なりをしていたのに、日に日に身なりがやつれていくおじさんを見て自分同様にお世話になった兄が他人の領域に踏み込めないまるで無力な親戚や両親へ涙を流しながら声を荒げ怒ったこともあった。その光景は衝撃的だったし混乱した自分は家を飛び出して川沿いまで走った。夜の空気の中いつもおじさんと散歩して歩いた景色を歩きながら泣いた。枯葉を踏みながら号泣した。そしておばさんは病院から介護ホームへ移りやはりおじさんはそこへ毎日通っていた1日中おばさんのそばにいたため帰りは毎日22時頃になっていた危険だと皆が感じていたときおじさんが雪の残っていた道路で転倒頭を打ち意識を失い救急車で病院へ運ばれた。

生まれて初めて1人で病院にお見舞いに行き、たくさんのモニター様々な管が繋がれ目を閉じ横たわっている姿を見て自分の無力さにどうしようもない気持ちになった。
手足は硬く、眼鏡が外され白髪が伸びていた。この人が全くの別人で、本物はどこかで散歩でもしていてくれたらなぁとか思った。
外の気温は暖かくなってきたが桜はまだ咲いていないから咲いたら写真撮ってくるから見て、と話かけたがやはり返事はなかった。

それから息を引き取るまで意識は戻らなかった。昨年の4月の終わりだった。


とても衝撃的なことだった。深夜に起床し、両親と布団やタオルの準備をして、病院から来た車を出迎えた。遺体が誰も住んでいないおじさんの自宅に帰ってきた。仏壇のある和室に寝かされ、あたたかそうな布団をかけられ、その上に刀が置かれた。
おじさんが横たわっているそばで一晩一緒に過ごした。1人で大丈夫かと両親にひどく心配されたが、恐怖とかは全くなくてただただ目を覚まさないか願っていた。なんかいろいろ話しかけていた気がする。

おじさんは自宅から火葬場へ運ばれた。大雨で足元は悪かった。介護ホームから認知症の進んだおばさんが車椅子で到着し、挨拶をしたが自分のことは誰だかわからない様子だった。遺体が焼かれてしまう前、棺に最後の別れをするとき、親族に支えられながら立ち上がったおばさんは泣いているような震える声で棺に抱きつき、何度もおじさんを呼んでいた。

そしておじさんは火葬された。


自分の半分が剥ぎ取られるような、無かったことにされるような虚無感があった。なぜあんなに立派でたくさんの生徒に尊敬されていた人がこんな死に方をしなければならないのか何故自分はなにもしなかったのか、それから8月くらいまで自分をコントロールできなくなっていたと思う。目覚めては死ぬことばかり考えていた。怖いからあんまり死にたいと人に言えなかった。新しい職場でも人と積極的に関わるのが怖かった。身勝手に親しい人に当たり散らしたこともあった。


「100日経ったら慟哭の悲しみから解放される」とお寺のお坊さんが仰っていたけれど、100日経っても全然悲しいし泣いてばかりいるし全然てきとーじゃんなんなんだあの坊主。
本当に子供のように死を受け入れられなかったし、何よりも自分が憎かったし、自暴自棄に過ごしていたけれど、親しい人が自分を諦めてくれなかったことを今は感謝してる。親しい人だけにはめちゃくちゃ死にたいと言っていた気がするけど、その時に離れていかなかったことが不思議だ。もうそんなことは思ってないし、生きてるの仕方ないしもう後悔しないように生きようとも思っている。

介護ホームにいるおばさんにも会いに行くし、おじさんのことを忘れることはないよと思って、おじさんが亡くなってからのことを文章に書き起こした。
半年後に行われたマジちょーハッピーな姉の結婚式を見て、少し結婚したくなった。


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ここまでが3年前に書いた文章だ。

生前本当にたくさんのことを教えてもらった人だったが、別れに関する耐え難い悲しみを最初に教わることになるとは思っていなかった。

いつまでも気持ちはまとまらないので、この文章をうまくまとめることは不可能だと思う。

改めて思うことは、湧いてくる寂しさやいつまでも心につっかえている後悔を抱きながら、自分の人生を生き切りたいということだった。



この文章につけた写真は、四つ葉のクローバーを探している自分をおじちゃんが撮影した写真です。


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