#018身近な史跡、文化財の楽しみ方(3)
前回は何でもない、神社にある灯篭や狛犬のことを記しましたが、すいません、それほど昭和戦時期のものを好きと言う訳でもないので、少し筆も振るってなかったかも知れません。
今回は最初に街中で見たものからご紹介してみましょう。下の写真は某和菓子屋の看板です。看板の縁をよく見ると、菊や牡丹を象った彫り物がしてあります。これらは木に菊や牡丹の形を彫っているので、色が無いので判りづらいかもしれませんが、干菓子の型です。看板の縁に干菓子の型を打ち付けての意匠として使っているんですね。和菓子屋らしい看板で非常に面白いと思いました。
次の写真は、「黒谷さん」として京都の町の人々に親しまれている、金戒光明寺にある墓です。こちらの寺院には、幕末に京都守護職として活躍した会津藩の墓があることはつとに知られています。その墓の一つをご紹介します。
会津藩と言えば、藩主の松平容保や会津藩お抱えだった新選組が有名です。金戒光明寺の会津藩墓地には、禁門の変やその他の時期に京都で亡くなった会津藩の人びとが祀られています。上の写真の墓石には「要士墓」と刻まれています。右側面には「会津貝沼村」と刻まれています。現在の福島県の喜多方市に塩川町天沼貝沼という地域がありますので、おそらくそこを指すと思われます。苗字がありませんので、おそらく武士ではなく、会津藩の庶民で、荷駄などの役割として徴収されたか、あるいは希望して参加した人物で、京都で亡くなったのでしょう。近年、荷駄などで一般庶民も幕末維新期の戦争などに巻き込まれて亡くなっていて、そういう人々の墓も残されているという研究もありますので、参考になります。
次の写真は、会津藩墓地の近くにあったのを偶然見つけたものです。墓石正面には「堀河紀子墓」とあります。あまり知られていないかもしれませんが、堀河紀子(ほりかわ・もとこ)とは、岩倉具視の実妹で、幕末のころには宮廷の女官を務めており、孝明天皇に寵愛を受け、二女をもうけますが二人とも夭折しています。過激な尊王攘夷派からは「四奸二嬪(しかん・にひん)」と言われ、孝明天皇の傍から排斥された「二嬪」のうちの一人です。明治43年(1910)5月に74歳で亡くなっています。たまたま歩いていた時に偶然見つけたのですが、あまり注目される人物ではないかと思いますが、こういうのを見つけると嬉しくなって思わず写真を撮ってしまいます。
次の写真は神社に掲げられている絵馬です。明治時代の消防組の奉納絵馬です。梯子やまとい、鳶口などを携えています。中央に当時の消防ポンプである龍吐水を乗せた荷車があります。
龍吐水は、明和元年(1764)に江戸幕府から町々に給付されたといわれる消火用のポンプ式放水具です。使い方は、中央にある可動式の放水筒を支えるために火消し1名が龍吐水の貯水槽にまたがって炎に向けて放水筒を支え、貯水槽に付いたポンプを火消し2名で上下させて、放水筒へ水を送ることで筒先から放水する、というものです。
明治時代に日本に滞在したアメリカ人動物学者のモースは、龍吐水の使用しているさまを目撃しており、その日記によると「放水している水はか細く、細切れに出るだけで消火するほどに水を放水出来ていない、貯水槽や放水筒は乾燥してひび割れて隙間から水が漏れている」と、あまり役に立っていなかった様子が記されています。こういうところからも、当時の生活習慣や風習、道具などが見れて、なかなか面白いです。
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