#056病気はどうやって感染するのか?-あるいは、昔の人は現代人より愚かなのか
今回は時節柄もあり、病気の話をしたいと思います。先日、仕事で東京から来た人の対応をしたところ、数日後にその団体の1名がコロナ陽性反応との連絡がありました。著者は、幸い濃厚接触者には当たらなかったのですが、仕事上多くの人に会うので、念のためPCR検査を受け、陰性と診断されました。帰宅して家族にそのことを話すと、子供らは若干不安を感じたようで、どうなると病気というのは感染するのか、という話を聞いてきました。今回のコロナですと、濃厚接触者に該当するのは、お互いにマスクなしで1.5m以内で15分以上の会話や飲食を行った、あるいは自分はマスクをしていたが相手がマスクなしで1.5m以内で15分以上の会話をしたか、唾液などの体液が触れるような状況にあったか、などという条件に一致するかどうか、というのが判断基準になります。このような話をしつつ、ウィルスは目に見えるものではないので、感染者からは赤い色の鼻息でも出ると判りやすくていいんだけどね、というようなことを子どもと話したのですが、ふと、明治時代のコレラまん延の時の話を思い出して、その話も付け加えて、子どもらに説明しました。今回はこの、子どもらに話した内容です。
海外との行き来が頻繁になるにつれて、人の流入に伴って海外からこれまで日本にはなかった病気も流入してきます。幕末のころにはコレラが初めて流入し、大正時代には当時スペイン風邪と呼ばれていたインフルエンザがまん延します。コレラについては、大流行した時期がいくつかあり、明治一〇年(一八七七)の西南戦争の後に、九州から引き揚げて来た兵士たちから関西で広まるという事象がありました。また明治一九年(一八八六)にはこれまでにないほどの流行となり、「大阪朝日新聞」には日々の新規感染者、死亡者の統計が毎日出るという、現在の日本で起こっていることと同じような現象が見られました。
この明治期のコレラの流行の際には以下のような記事が「大阪朝日新聞」に掲載されています。例えば、明治18年10月21日付には、コレラとその類似病に罹患した場合には届け出るようにと出ています。これは、当時コレラと同じくチフスが流行していたため、似た症状が出るのでどちらであってもまん延を防ぐためには届け出が必要と呼び掛けたものです。また、明治19年8月19日付の紙面には、スイカやまくわうりが感染の原因か?という内容の記事が掲載されています。これは、当時はウィルスという概念を知らないので、水分の多い食品によっておなかをこわして感染しているのではないか、という感覚的なものですが、水などから感染するという経験則から来たものと思われ、当たらずとも遠からじ、と現代のわれわれでもうならされます。コレラでは下痢を伴うということで、豆腐を食べて単なる食あたり、という人が慌ててコレラだと思い込んでしまう「疑似コレラ」というものも、この頃には登場しています。
このように感染すると恐ろしいコレラですが、何となくこれをすれば感染してしまうという当時の人々の肌感覚というものがありました。それは、1)感染者の身に着けていたもの、使用していたものに触れると感染する、2)吐しゃ物やし尿に触れると感染する、3)吐しゃ物やし尿のにおいをかぐと感染する、といったものが代表的と言えるでしょう。1)は現在でいうところの接触感染という感覚でしょうか。感染者の身に着けていたもの、使用していたものに病原菌はいるんだ、という感覚でしょう。2)は現在でいうところの唾液などの体液に触れることによって感染する飛沫感染という感覚でしょう。3)は、においをかぐことで、その中に病原菌がいて感染するという、今でいうところのウィルスによる空気感染といった感覚に当たると思います。これら三つの病気に対する感覚が昔の人にあったこと、3)については目に見えないので、そのような感覚を一〇〇年以上前の昔の人々が持っていた、ということが、特に注目に値すると思われます。
上記については以前の「趣味と実益を兼ねる、あるいは地域に伝わる名代の餅のお話-食と歴史にまつわる、あれこれ」の項目で紹介しました「乙訓郡上植野村役場日誌(4)」から具体的に紹介してみましょう。
明治一九年(一八八六)五月一〇日の項目には「(前略)三時頃ヨリ戸長役場より書面参リ、書面文意当村森山儀兵衛京都屎扱取行候ニ付、其屎芝原米吉ナル者コレラ病罹リ、其屎扱取持帰リ候ニ付、其屎注意スルヨ書面ニテ、早々清水戸長役場テ其事御尋候処、予防薬持帰ルコト、清水早々嶋脩造宅より帰宅候、早々其屎当村墓所引送リ、予防用ヒ其所ニ買候処、向日町分署并郡役所生衛( ママ)係リ及戸長・京都巡査両四名出張シ、セキタン壱斗壱升入箱壱ツ、消毒薬壱本失火候処、(後略)」とあります。ここには、京都市内から肥料としてし尿を運び込んだ人物がコレラに感染したこと、持ち帰ったし尿に注意すること、このし尿は墓所まで運んで石炭や消毒薬によって火にくべて焼失させたこと、が読み取れ、し尿がコレラの感染源として疑われていることが読み取れます。
同年の五月一八日の記載には「(前略)各組長集会シテ其事示談スルコト、十時頃ヨリ清水戸長役場え虎列刺病ニ付集会行候処、弊村ニ於テ虎列刺病罹リ死去候者有之候ハヽ、十人組より罷出テ勤くコト決義候、且ツ掃除取締リ役人撰スルコト」とあり、村役場ではコレラ対策のため集会を行い、コレラで亡くなった者が地域で出た場合は隣組を動員してその任に当たること、また掃除取締役人を選出することが読み取れます。コレラで死者が出た場合は、みんな罹患するのが怖いけれども、近所の人たちが協力して死者の埋葬などの対応に出ること、また突然清掃の話が出てきますが、周りを清潔にすることで感染することを防ごうということで、村の中を掃除するという話が出てきます。清潔が感染対策になるという当時の人々の着目点も、当たらずとも遠からじで面白いですね。
同年五月二二日には「(前略)市街中屎尿扱取は夜十二時ヨリ翌午前八時迄ニ扱取コト達相成リ、午后ヨリ各伍長集会、掃除清潔ニスルコト、該屎咄し、」とあり、し尿を京都市内から地域へ運び込むことは、夜一二時から翌朝八時までに行うことという京都府からの通達が来ていることが読み取れます。これはなぜ時間を限定するかというと、日中の太陽が出ている時だと、上がった気温によってよりし尿が発酵してにおいが出やすくなり、そのにおいをかいだものが感染するという理由によります。そのため、気温の低い夜の間にし尿を運び込むことが京都府からの通達で義務付けられた、ということです。
その後、この村では、感染対策として一生懸命清潔に保とうとします。同年七月六日の項目には「午后一時頃ヨリ床下掃除ニ付只今惣代出頭スルコト、清水行、明七日朝ヨリい・ろ・は三組検査スルコト依頼受置様事務所帰り人民呼寄セ其事住( 注)意スルコト、床下明(上ケカ)掃除ニ清潔ニスルコト、其晩に・ほ・へ組五人組内壱人呼寄セルコト、其事注意スルコト」とあり、また翌七月七日の項目には「晴天午前八時頃ヨリい・ろ・ハ三組床下掃除及家宅内皆悉掃除シテ巡査遠山・山田・戸長両三名検査候コト、其夜十二時ヨリ番水始メルコト」と熱心にみんなで掃除をしている様子が描かれています。このように目に見えなくても清潔に保つことで感染予防としての実効を上げること、またにおいから感染することを避ける対策をとることなど、積極的に対応していきます。
なぜ、それほどまでに一生懸命に衛生対策を行っているかというと、明治一九年(一八八六)がコレラの大流行する時期に当たり、この四月には京都府知事・北垣国道(一八三六~一九一六)の母親が「疑似コレラ性」で亡くなるという、コレラかコレラと思しき症状で亡くなるという事件があったことに因るでしょう。地域行政の高官の母親が亡くなるというのは、なかなか当時は衝撃的なことだったと思われます。
何となく、現在のわれわれの感覚とすれば、昔の人々の方が迷信深く、合理的ではないというように受け取りがちだと思われます。例えば、下記のURLに記されているような、病気は見えない獣のような、妖怪のようなものが人々に感染させるんだ、と皆が信じ込んでいると現代に生きる我々は思いがちなのではないでしょうか。しかし、100年前の明治時代に人々も、現在のような技術的発展が無い中で、当時なりの理由や合理的な考えに基づいて人々は判断して生きていたと、この村役場の史料から読み取れないでしょうか?
まぁ、ここまでの話を、明治時代の人も目に見えないウィルスらしきものをにおいが匂うということで、そこに病気が「ある」と判断していたっていうことは、すごいよね、というお話を子どもにした次第です。
その時々の人々が、その時に合理的と思うことが出来る情報から判断して、合理的、科学的に生きていた、と、この明治一九年のコレラ大流行における当時の人々の対応から、垣間見えるのではないかと思われます。