#126鳥羽・伏見の戦いと史跡-身近な史跡、文化財の楽しみ方(19)
以前に京都防長会編『鳥羽伏見戦七十年記念』(京都防長会、一九三六年)という書籍を国立国会図書館で見つけました。デジタルコレクションとしてインターネット上でも全文閲覧出来るので、ご興味のある方は一度見ていただければと思います。こちらの書籍は、慶応四年(一八六八)一月六日から開戦した鳥羽・伏見の戦いについて、長州藩の目線で編集した書籍です。地図の上に各所に配置された部隊などの記載があり、非常に見やすい本です。
こちらの本を題材として、以前に伏見の町を歩いたことがあります。今回は伏見の戦跡を訪ねたお話です。
鳥羽・伏見の戦いのうち、伏見方面の新政府軍は御香宮(御香宮神社、京都市伏見区御香宮門前町174)を拠点としてて、そのまえの東西に延びる道路、桃山御陵道を防衛ラインとして、北から南に陣取っていました。一方で旧幕府軍は伏見奉行所を拠点として、南から北へ攻め上る形で、会津藩、新選組らが陣取っていました。伏見奉行所は、現在は府営団地や学校、公園になっています(京都市伏見区片桐町、西奉行町、東奉行町付近一帯)。
伏見奉行所から御香宮へは北に向かってなだらかな坂になっています。そのため、現地に立つと、旧幕府軍が地の利的に圧倒的に不利であったことが判ります。というのも、御香宮の東側にある伏見街道が通っていますが、伏見街道沿いが小高い丘になっており、そこに薩摩藩が大砲を据えて陣地を構えていました。実際に現地に行くと、その丘のあたりから伏見奉行所の方面が低いために丸見えになっています。当時は現在よりも高い建物が無かったために、今よりさらに丸見えだったため、大砲を打ち込み放題だったと考えられます。
旧幕府軍は、伏見奉行所から北に打って出てますが、新選組は現在の京町通りを北上しています。この京町通りには著名な料理屋である「魚三楼(うおさぶろう)」があります。おそらく新選組の隊士たちもこの前の通りで戦ったことでしょう。この魚三楼の店舗には、建物の柱に当時の銃弾の跡が残されています。
下の写真が銃弾の跡です。この破損状況からみると、北側から南側に銃弾が当たった痕跡に見えるので、おそらく新政府軍の銃弾が当たった跡だと考えられます。
下の写真は京都市立桃陵中学校の構内に建つ「維新戦跡碑」です。伏見工兵第一六大隊が建立した石碑になります。こちらはGoogleMapでもその所在は確認できますが、校内に建つものですので、原則外部の人が傍によってみることは出来ませんのでご注意ください。
今回は『鳥羽伏見戦七十年記念』を題材に伏見の各所を回りましたが、実際に現地を歩くと、書籍や地図では判らない実感を伴って理解が出来ます。別な機会に鳥羽戦跡も歩いておりますので、またご紹介できればと思います。