#083古文書講座での学び―研究者の常識、一般の常識(二)
よく時代劇では、江戸時代の農民は年貢を支払うことで非常に困窮している様子が描かれています。これも実は全国一律のことではありません。概ね日本列島の周縁部は地味が良くないために年貢率が高く、畿内近国は地味が良いために年貢率がそれほど高くありません。とはいえ、現在の我々からすると、概ね5%から45%の範囲で給料から所得税が引かれることになりますが、江戸時代を通じての幕府の年貢率は「五公五民」、つまり50%が年貢として徴収され、手元には50%しか残らないという、今日で考えると高い税率と感じる数値です。しかし、先ほど書いたように、周縁部においては、最も過酷の税率として良く引き合いに出される薩摩藩では「八公二民」、つまり80%の税率で税金が取られ、農民の手元には20%しか残らないというものでした。これと比べると幕領の年貢率は非常に軽く感じます。もちろん相対的な比較ですので、現在の我々よりは高額な税率だと言われるかもしれませんが、当時は固定資産税などがないため、年貢を払うだけで良かったとも言えます(付加税として、十分一大豆銀納めなど若干のものはあります)。また、逆に水害や台風があった時に、田畑に被害が出た場合には災害による税の控除もあり、現在とあまり変わりません。農民が立ち行かなくなるほどの税を領主側が取るのではなく、そのあたりは永続的に税金を徴収出来ないといけないということで、ある程度の控除も領主の方では行っていました。
とはいえ、収入の半分も税金として取られるというのでは農民もたまったものではありません。少しでも手元に多く残すことを考えるのが人情というものです。今回紹介するのは、農民がどのようにして少しでも手元に収入を残そうとするか、その方法についてです。基本的に江戸時代の農民は田地で稲作をして、そこから収穫される米を年貢として支払います。そのため、年貢率が50%であれば、所有地面積の50%以上は稲作をしないといけません。50%以上としたのは、翌年に蒔く種もみを最低限残さないといけないからです。あるいは、自分たちの食事する分の米も必要でしょう。しかし、所有地には限りがあるので、なかなか収益を増やすことが出来ません。そこで考えられたのが、稲を植えている隙間に畝を作り、他の作物を植えることです。なかなか想像しがたいかもしれませんが、畝と畝の間に水を通して、そこに稲を植えるという発想です。通常では稲の苗を一定間隔で縦横に田地に植えますが、その隙間が惜しい。そこでその隙間を畑として活用してしまうということを行うところが出てきます。この田の仕組みを「島畑(しまばた)」といいます。島あるいは縞と書きますが、語源としては、田地に島のように畝が出来ているからとも、畝が田の中で縞模様になっているからともいいます。このようにして、通常だと米しか取れない田地から他の作物も同時に栽培して、それを収益とするということも試みられました。
しかし、享保年間になると、徳川幕府八代将軍の徳川吉宗によって年貢の増収が検討され、各地に役人を派遣して、隠田と呼ばれる不法に所持している田地の取り締まりなどが行われます。近畿一円には神尾若狭守春央という人物が派遣され、厳しく年貢増収対象の確認が行われます。そこで先の島畑も発見され、非常に厳しく取り締まられたということで、幕府にとって年貢増収が成功することになります。とはいえ、農民も非常にしたたかで、一旦は島畑を破棄するものの、ほとぼりが冷めると再度島畑を作るといったようなことをしていたようです。(このあたりは森杉夫『近世徴租法と農民生活』(柏書房、1993年4月)に詳しいので、ご興味のある方は図書館などで探してみてください。)
このように、江戸時代の農民は、ただただ搾取されるだけの存在ではなく、節税をしたり、何とか収益を増やすことで、より豊かな生活をしようという面を持った、現在の我々と同じであることが見て取れるでしょう。
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