セクシー☆ダイナマイト「伝えるための準備学」(著:古舘伊知郎さん)
セクシー・ダイナマイトな本だった。
膨らませる部分と締める部分が絶妙でボリュームたっぷり。
そんな恥ずかしい部分、秘蔵まで見せてしまうの?
見てはいけないものを見るような気がして、
ドキドキしながらページをめくった。
読みながら、ずっと映画「バーレスク」のワンシーンが頭の中で邪魔をしていた。
クリスティーナ・アギレラ演じる「アリ」が、バーレスクのセクシーなダンスに加えて「ナマの歌を聴かせたらもっとショーが魅力的になる」とオーナーに進言したもののかけあってもらえない。
ある日機材トラブル(嫉妬したニッキによるもの)によってパフォーマンス中に流している歌入りのレコードが突然落ちる。
幕を閉じようとしたところ、アリがアカペラで歌い始め、そのパフォーマンスが喝采を浴びる、というものだ。
よくあるシンデレラストーリーだけれども、
「作り物」ではない「準備と情熱に裏付けされた、ナマの即興」にずっと輝いていて欲しいという人間的な欲望を満たしてくれるものだった。
大人になってから、テレビで見たことのある著名な方の本を読むのは初めてかもしれない。
今回の読書体験でおもしろかったのは、終始古舘さんの顔が頭に浮かんでいて、「セリフ」のひとつひとつを私の頭の中の古舘さんが熱く読み上げてくれて、心情を語る部分はインタビューのようにしとやかに対面で話しているように感じるところだった。
そして、それが相まって同じナマの泥くさい人間なのだと、同じ紙、同じ土俵の上で一人の人間味を感じるところがとても良かった。
あの、口からでまかせを言っているように感じるものが、全て準備?(とっても失礼な物言いですが、全力で尊敬して褒めています)
睡眠導入の乙女の部分は好感度しか上がらない。
「テレビでたまに見ていた人」ではなくなり、一人の人間として一気に好きになってしまった。
メモ用紙を常備する、置く、わざと切り抜きを手で破いてぐちゃっと置く、というものが、私にとっての「非公開日記ブログ」のようなものだな、と感じた。
どなたか有名なライターさんの本の中で、自分だけの非公開日記ブログがあると見て、とてもいいと思った。
私は筆記するよりタイピングの方がずっと楽で、早い。とにかく感情と出来事、下らないことをバーッと書きなぐりたいときに、サッとそれを開いて、めちゃくちゃに書く。
後で読み返した時に本当に下らないなぁと思ったり、そのまま忘れてしまったりするけれど、案外おもしろいものもあったりする。これはもしかすると「準備」しているのかもしれないと思わせてくれた。
とっておきのことば遊びのストックは私もいくつか寝かせている。
「付け焼き刃」の話は私の趣味のゲームプレイスタイルによく響いた。
ゲームを遊び散らかすのは得意だけれども、ひとつのゲームを極めるのは得意ではない。攻略も考察も中途半端で「そのゲームの人」ではない。
「その道の人間ではありませんが、それが何か?」
いわゆるオタクの間だと「にわか」というのかもしれない。「ニセモノの付け焼き刃であることを開き直る」からこそ謙虚にもなれて、素直に吸収できて、折れることもできるのかもしれないと思った。
本物の刀ではないからすぐボロボロになる。ある意味おもしろい引き立て役にもなれるのではないかと感じた。
鈍い刀があるからこそ、本物が光る。鈍いからこそ憧れることができる。悪い事だけではないなと感じた。
いつの日だったか、ヴィレッジヴァンガードの黄色いPOPで、ずっと昔から発刊されている本に対して
「今あなたが出会ったから、あなたの人生でこの本は新刊です」というオススメが書かれており、胸を刺したことがある。
もしかすると有名な誰かの言葉なのかもしれない。
たしかに、「新しい」「古い」の定義は「何を基準にしているか」が抜けがちだ。感情や知見に新しいも古いもない。
これは興味のある本に対してAmazonの口コミなどで見たとしても、きっと私の胸には刺さらなかったと思う。ヴィレッジヴァンガードの黄色いPOPで知らない様々な本に対して書かれているのを見たからこそ、衝撃的だったのだ。
「知らないもの」の中に宝物は眠っている。
そうだ、街に出よう。
「読みたいことを、書けばいい。」「会って、話すこと。」
何をどうやって書けばいいのかサッパリわからなかった私に、一つの指標、旗の目印をくれた。いずれも読んで、書くこと、話すことについて学ばせてもらった。
私はライターの住民票が欲しい。この街に住んでもいいと言われたい。そのために基礎中の基礎を自分に叩き込みたい。準備したい。
私は表現と感性に全振りしてしまう方だと自覚しており、まずは今はあまりおもしろく感じていない「正解」「お手本」を身に着けようとした。
1度目に読んだ際はかんたんに書く方法について「そんな物はない」を誤解してしまったけれど、2度目に読んだ際はやはり泥臭く地道に「起承転結」「資料集め」「独自の感情の発露」などを実行し、この体で書くしかないと感じた。めんどくさいなぁ、嫌だなぁ、できそうにないなぁと思って布団にくるまって自己嫌悪してもその先にしかない。
お手軽にできるならそれに越したことはないだろうけれど、完成図を見るには動くしか方法はない。
この「伝えるための準備学」では、改めて自分におもしろいと思わせるように苦しむことを学んだ気がする。凡人には、準備するしか、ないのだ。
これは読書感想文だ。そして、ファンレターでもある。
私は先日「書く」と決めた。お尻に卵の殻がついたかけだしの自称ライターだ。ひろのぶと株式会社様のような、光る太陽があることでモチベーションが上がり活動に希望と勇気をもつことができる。
あわよくば…と考えるけれども、まだお話して爆笑してもらえるようなネタを考えることができていない。
そしてテレビでたまに見かける天才だと思っていた古舘さんが、かつて大きな失敗という準備をし、「準備学」を唱えていることに希望と勇気をもらった。
わたしも「おもろいこと」が言いたい。
おもろいことを通したいために、基礎を積んで準備したい。
適度なストレスを調整し、おもしろがって準備する。ご本人は平凡とおっしゃっているけれど、「準備の天才」なのではないかしら。いかがでしょう。
何かを発表するときにはスリルがある。
今も私はこの読書感想文を公開してもいいのかハラハラワクワクドキドキしている。公開することで何が起こるかわからない。
何も起こらないかもしれない。
何かが起こる準備をしておこうと思う。