文章で伝えるときいちばん大切なものは、感情である。(著:patoさん)
本は「薬」で「毒」。
書く人の悩みに効く。
肩こりや頭痛にも効きそう。寒くなってきました。
毎回本を読むたびに「これはすごい本を読んだ」となる。
最初から最後まで「読ませる…」となっていた。
私はよく毒にも薬にもならない話を徒然と書いているなと我ながら思う。
私は何を書いているんだろう。
この本でやっぱりそうだよな、と感じたのは
「客観性は大切だ、けれども客観性はクソだ」
色々な外的なものに意識をもっていかれることがよくある。
恐ろしいと感じるのは「あなたが見てくれる」ということだ。
いいね数、フォロワー数、ビュー数
「書く」は「多くの方に共鳴してもらう」なのだろうか。
様々なライター様を拝見してきたけれど、
すてきでおもしろいライター様はそういうのだけじゃない。
「あなたの心に優しく深く突き刺す」のもすてきだ。
すてきでおもしろいと感じるライター様はこちらに多い気がする。
しかも広く多くの方に刺している。
もしかすると誰かにとってはその辺の雑草を煎じて飲んでいるように見えるのかもしれない。
いずれも「誰かの人生を変えてしまう文章」かもしれないのであれば、
「多くの人生を変える」が正義なのだと感じる。
この本で「文章は人」のようなものが書かれていたけれど、
ははあ、そうだなと感じた。
とはいえ私が長い期間エンタメ界を楽しんできて、
「作品は最高なのに作家様は……」みたいなものも、正直あった。
もしかすると表面的に悪い部分だけがネットに出てしまう悲しい方なのかもしれない。
(私の知人でも現実だといい人なのにネットだと突然微妙になる人がいる
※悪口ではなく、いい意味で。あまりストレスためないでね…)
おどろおどろしい作品を作る方が、気弱でとても丁寧で繊細な方、みたいなのもよくある。
作品には人が出るというけれど「そうだよなぁ、そうだな? そうかなぁ?」となっているのが正直なところだ。
勝手に理想を抱いて幻滅しているだけなのかもしれないけれど、その人の中の一部が出ていることには間違いないんだと思う。
つまりその気弱で丁寧で繊細な方の中のどこかにおどろおどろしいものを隠しているのだ。人間って、世界って本当におもしろい。
私の作品って、私ってなんだろうなぁと考える。
先日「ターゲット層が違うため」とお断りと激励があった。
「とても興味深いから覚えておく」とおっしゃっていただけた。
刺せたか? おそらくは'配慮'だな、と思ったけれど。たしかにありままをダメ元で提案した。ごめんなさい。そしてありがとうございます。
私が目指すべき、そして、目指したいものは、
やっぱり「好き」「わくわく」「生きる希望」なんだと感じる。
もちろん広く有名になって、きらきらチヤホヤされたいけれど、自分の世間とのズレと目利きのなさはイヤというほど思い知っている。
くわえて頑固でやりたいことしかしたくない。ワガママにも程がある。
見世物小屋でさらしてもらえるのであればしめたものだ。
くわえて好きなことだけを突き詰めていって成功できる天才ではない。
自分は凡人だ。そのへんにゴロゴロ転がっている一般人だ。
身に着けた社会性は全て努力の賜物だと思っている。これは尊敬している。
ひねくれていて変わり者かもしれないけれど、
ひねくれている一般人だ。才能とは変のベクトルが違う。
王道より邪道で勝負した方が勝てる気がしてしまう。
この本でいちばん好きなのは、最後のほう。
「もしかしたら僕は文章の中にいるpatoが少なからず好きなのかもしれない」
あとがきだ。こういう本の「あとがき」って本文の続きでは? と感じるけれど、そのことは今はおいておく。
この感覚がわかりすぎる。
以前「水彩」という名前でやっていた時、なんだか違うな、と感じていた。
わたしはたぶん「やね斜裏」が書くものが見たい。
エンタメを全力で楽しみ尊敬し誇る「やね斜裏」ってやつのことが、
バカだけど好きなのだ。こいつは本物のバカだと思っている。
社会人になって、バカだけではいられず大人になってしまった。
その大人をできるだけ「うるせぇ!」と握りつぶしたのが「やね斜裏」な気がする。
無邪気で自然で走り回っている少年のようでありたい。
演じ切れていないけれど「やね斜裏」っていうのは私にとって応援している推しアイドルだ。
だから、がんばってほしい。
だから、書き続けてほしい。
まだ駆け出し1ヵ月ちょい。まだまだ伸びしろしかない。
誰かの毒や薬になるものを書いて、優しく刺していきたい。
通り魔だ。詐欺師なのかもしれない。
いや。魔女か。あれ? マレフィセント? やったー!
(※わたしはマレフィセントが大好きです)
本は心の薬。
もしかすると実は毒だったのかもしれない。
もしそうだとしても毒を以て毒を制す。
悩みの症状を軽くする。