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【好き】「会って、話すこと。」(著:田中 泰延さん)

誰も私の話には興味がない。
本当にそうだと思う。
見てくれてありがとうございます。
「書く」と「話す」の違いは、なんだろうか。

隣に座って、同じものを見る。
「小さくてきれいな花ですね」
「そうですね、この黄色や香りもいいですね」
事象に対する心象の違い、知識の遊びや交換を楽しもう。
この本は、それをおすすめしてくれたように感じている。

私もユーモアが大好きだ。ユニークなユーモアが最高だ。
「NO ユーモア、NO ライフ」ぐらい、ユーモアは大事だと思う。
できれば変なことばかり言って日々笑って楽しく過ごしたい。
できれば、賢いバカでいたい。
能ある鷹は爪を隠すというけれど、賢いバカは賢さを隠す、ということで…ええと、結局バカしか残っていないのかもしれない。そもそも賢い人は、自分を賢いと思っていないのではないかと思う。つまり、賢いバカはただのバカなのかもしれない。
頭がいいと思われることを目標に生きているわけではない。
頭が悪い方が楽しい気がする。

バカだから早速私の話をしてしまうのだけれども、
この本を買ったエピソードがあるので自分語りさせて欲しい。
「読みたいことを、書けばいい。」と、「会って、話すこと。」
著者は同じ田中泰延さんだ。
著者で買ったわけではなく、読みたい本を同時期に買ったら、たまたま同じ著者の方だった。本が届いて自分で装丁が似ていることに驚いて、著者を見れば同じ方ではないか。
え、盛ってないよ。本当の話だよ?
これは、以前にもあった。
「バズる文章教室」と「「好き」を言語化する技術」だ。
いずれも著者は三宅香帆さんで、大好きだ。
まんまと編集の方の術中にかかっている、と感じる。
運命ではない。偶然でもない。
迷える私に、知りたいことを的確にその方へ問うてくれている。
編集という仕事に興味をもつ出来事だ。
まだちゃんと調べていないけれど。

大前提として、「私は人のことが聞きたい」。
本を読み始めて数分で反感を覚えた。
この本には「相手はあなたに興味がない」「あなたも相手に興味はない」と書かれている。
どういうことだ。いいや、私は人のこと、人の心に興味がある。
ただ、この方は言葉や文章の世界ではとても先輩で、先人だ。そこには何か理由があるはずだ。
どういうことかじっくり考えてみた。
私はたしかに、「誰も私に興味がない」と思う。
基本的に人は自分のことで精いっぱいで、他人を気にかける時間は多くないものだと思う。
話したところで「ふーん」「へー」「そうなんだー」「がんばってねー」で終わると思う。
寝て起きたら忘れていい。「忘れる」は人の美徳でもあると思う。
何かを忘れたことがない人間はいないのだから、「なんだったっけ?」は全国共通で通じる言葉だ。
私が話すのが下手なのは、「私が話すことは9割9分どうでもいい」のが根源かもしれない。
あと、無駄にうまいこといおう、うまいこと書こうとする。
ユニークなユーモアを入れる必要性を強く感じており、そしてそれはとても無駄だ。
「どうでもいいこと」しか言えないまである。私が話す必要性を感じない。


ところが、「私は人の「好き」に興味がある」。
じっくり考えてみたところ、非人道的な解答がでてきた。
「その人に興味があるわけではなく、「様々な心の動き」に興味があるだけ」
その人の「心の動き」という事象について、その人の心象に興味がある。
つまり、「人の心」を「物(媒体)」としてとらえているということだ。
なんだか書いていてゲシュタルト崩壊してきそうだ。

とはいえ、話がしたい人、見たい人、私が会えば、結局Win-Win-Winになる。

Q.私「あなたも相手に興味はない?」
A.私「私は私のために人の心の話を聞いて様々なことを感じるのが好きなのだ」


なんだか変な視点で勝手に疑問を抱いて、勝手に自己解決してしまった。
さて、この本に書かれていることは、

・ボケましょう
・ツッコミはマウンティング、しなくてよろしい
・判定もマウンティング、しなくてよろしい
・同じものを見て、楽しみましょう

そういったものだと思う(違ったらすみません)

目からウロコだった。
「対話とはなんぞや」と深く考えたことがなく、ただただ「なんだか自分のことを話すのは苦手だなぁ、『話す』は苦手なんだな」と感じていた。
私はこのところ「お気持ち表明をしなければならない」とどこかで感じていた。ところが、これは少し違うようだ。

主義、主張ではなく、「エトス」哲学を語れ、
それならできるかな、と感じた。知らんけど。


ところで、「書く」と「話す」の違いは、なんだろうか。
冒頭でも述べたけれども、本を読んで、大きく違うと感じた。

私は書くのは好きで、話すのは苦手だ。
書くのは得意ではないし、話すのは嫌いじゃない。

一度仮で答えを出したことがある。
「添削、推敲できるかどうか」「読み返してよしよし、と自分が納得できているかどうか」だ。
誤解は恐ろしい。
口から出してしまったものは消せない。自分の脳から消えても、相手の脳では消えていないかもしれない。
・無責任なことを言いたくない(たくさん書くくせに)
・雄弁は銀、沈黙は金(たくさん書くくせに)
・よく知らないこと、体験していないことについて、判断したり語る資格はないと思っている(仮定してみるくせに)

書くときには思考のプロセスを挟んで、
自分の言葉を目に見える形にして書いて、
自分の目で見て「こういうことで、間違いない」と確認することができる。
時には書いて、読んで、「あ、これは違うわ、この理屈は通ってないわ、何を言っているんだ私は。反省」と意見を変えることもある。
あと、これは私だけかもしれないけれど、自分の書いた言葉をもう一人の自分に反芻してもらう手順が入っている気がする。
野生の私という存在はよくわからない。だから、理性の私に一度見てもらう、というイメージだ。

理性の私は臆病で何も書くことも話すこともできない。
でも野生の私のファンで、「うーん、出しましょう」と言ってくれる。
そういうイメージ? 知らんけど。

野生の私は本当に恐ろしい。
自分で何を言うかわからない。
思ってもいないことを言う可能性も大いにある。
職場でも誤解を招く言葉を使ったのではないかとよく謝っている。
獰猛な獣のように感じている。
暴走しないように、沈黙は金、と心に刻んでいるような気がする。

しかし、今回この本で
「ボケましょう」と言ってくれたことは救いな気がする。
アドバイスしなくてもいい、ツッコミしなくてもいい。
自分の感想を述べなくてもいい。
相手の意見や感想を曲げさせなくてもいい。
相手の心、個性を大事にすることができる。
これからぜひ使わせてもらいたい。


そもそも、物事、人生に正しい答えなんてない、と私は思っている。
結論や答えを出さなくてもいい。知らんけど。

もし間違っているとしても、楽しい人が少しでも増えればそれでいい。


安西先生、楽しく会話がしたいです………


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