【シリーズ】忘れられない先生①
私は両親が共に教師だったが、近すぎる存在のためか、尊敬の対象にはなれなかった。
数学の学習障害があり、数学はまったくできなかった。(当時は学習障害という概念はなかった)
しかし、他の教科の成績は2年生までは比較的良かった。しかし、2年生の頃は親の過干渉や暴力、さらに若手担任との相性の悪さが重なり、とにかく大人に反抗的な時期を過ごしていた。
そんな私を3年生で引き受けたのが、ベテランのA先生だった。A先生は明朗快活な女性の体育教師で、ヨーロッパ人とのクォーターらしく、スラリとした色白の姿が印象的だった。厳しい先生ではあったが、そうした私の状況を理解してくれて、適度な距離で接してくれ、適度に甘やかしてくれた。遠方に住んでいた祖父母以外で甘やかしてくれたのはA先生が初めての人だったと思う。
私は小学生の高学年の頃からおそらく起立性調節障害を抱えていたのだと思う。当時はまだその概念がなく、「低血圧」として根性で学校に行くべきだというのが一般的な考え方だった。そのため、朝練には出られず、入学早々に部活も退部させられることとなった。しかし、A先生はそんな私にガミガミ言わず、そっとしておいてくれた。
周囲が受験生として勉強に励む中、私は親との軋轢から母親に「中学を卒業したら働けるのだから、一人で生きていけ」と言われており、受験勉強をする余裕も意欲もなかった。その結果、成績は転がるように落ちていった。
Vaundyの「僕は今日も」を聴いた時、その歌詞に涙がでた。私の場合、父と母からかけられる言葉が逆だったが、それでも胸に突き刺さるものがあった。
そんな私にA先生は運動会の応援副団長という役割を推薦してくれた。私に役割を与えてくれたのだと思う。当時、女性が「副」という役割を担うのが一般的だった時代だった。しかし、団長は本物の不良で何もしなかったため、実質的にすべての段取りを私が取り仕切ることとなった。
正直、その役割は面倒くさいと思っていた。それでも、A先生の期待に応えようと責任を持って取り組んだ。1年生から3年生までの生徒をまとめるのは大変だったが、私なりに全力を尽くして頑張った。
進路相談の際、「高校に行くつもりはない」と伝えると、A先生はさらりと「高校くらいは行ったほうがいいわよ」と言い、偏差値は高くないが穏やかで牧歌的な雰囲気のある県立高校を薦めてくれた。そのおかげで、その後短大卒業までの道を歩むことができた。
30歳を過ぎて同窓会で再会した際、A先生の印象は変わらず、おしゃれで若々しく、そして溌剌としておられた。どの生徒にも満遍なく的確な指導をしていたため、同窓会でもA先生は人気があり、彼女の周りには大きな輪ができていた。
そのため、先生とゆっくり話す機会には恵まれなかったが、それでもきちんとお礼を伝えられたことは私の誇りだ。
A先生の中で、かつての私は殺伐としたイメージだったのだろう。先生は私にこう言ってくれた。
「みあちゃさん、こんな落ち着いた大人の女性になっていてうれしいわ」
その言葉がとても嬉しかった。あの時、たった一人でも私を見てくれる大人がいてくれたことが、どれだけ私を救ったか。そして、40歳を超えた今もこうして感謝の気持ちを抱き続けているということが、先生の存在の大きさを物語っていると思う。A先生は大きな羅針盤だったのだなと、今振り返って思う。