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タトゥー【ノンフィクション】

四半世紀以上前、私はある海外の街で暮らしていた。その頃、腰にタトゥーを入れた。男性の手のひらほどの大きさで鮮やかで堂々としたアウトローらしい柄だった。それは安室奈美恵さんがタトゥーを入れる一年前のことだったそうだ。

何故海外の街で暮らしていた理由はまだ蓋を開けたくない。

あの頃、私は露出の高い服が好きだった。丈の短いトップスや背中を大きく見せる服でタトゥーを少しでも見せびらかすようにしていたがそういう態度もたった一年で後はひたすら隠して生きてきた。

「それ」を話すと必ずと言っていいほど「なぜタトウーを入れたのか」と尋ねられる。

10代の頃から、私の周りにはタトゥーを入れる友人、元彼が多くそれが私の普通だった。

谷崎潤一郎の「刺青」を読んだとき、その美しさに憧れたのも事実だ。

そして海外の街で一緒に暮らしていた現地の元彼がタトゥーアーティストで、彼が「ぜひ入れさせてほしい」と頼んできたことも一つのきっかけだった。

だが、そんな理由も表面の一部に過ぎない。

実際は自傷の代わりだった。海外生活が思うように進まず行き詰まり深い絶望の夜に私は自分をナイフで傷つける代わりに、その手段としてタトゥーを入れることを選んだ。

タトゥーが持つ日本でのリスクも理解していたがそれでも当時の私には、それが唯一の選択肢に思えた。

今、そのタトゥーは色褪せ老いた皮膚の上で弱々しくかっての畏怖の様も失っている。

ファストファッションのブラトップを着てその上に年相応の無難な服を重ねる私は道行く中年女性と何も変わらないように見えるかもしれない。

けれど、この体に刻まれたタトゥーは、四半世紀の時を共にしてきた私の一部なのだ。

いつか、またこのタトゥーとの長い関係について書きたいと思う。私とタトゥーの四半世紀の静かな対話を。

あの頃の私は知らなかった。四半世紀以上の時が流れた先でどれほど寂しさや悲しみに耐えながらもささやかで温かな家庭を築き微笑む自分がいることを。

色褪せたタトゥーが背に刻まれたまま、日々の小さな幸せや些細な喜びを抱きしめるようにして生きていることを。あの夜があっての自分なのだと今は思う。

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