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『囲碁と将棋はどう違う?』(4)

(マガジン『作家・湯川博士』)
 
 
 前回(3)までは、囲碁や将棋のそもそもの起源という、大きなテーマだったので、ちょっととっつきにくかった。湯川師匠は短くまとめているが、その中には当時(古代)の科学や哲学も含まれているからだ。その辺りの把握がないと、感覚としてつかみにくい。
 
 この(4)からは、もっと直近の話に移る。まずは、江戸時代だ。

 碁と将棋の普及度だが、大和時代にすでに碁師が存在し、遣唐使とともに中国に渡り中国人とほぼ対等に打った記録がある。そして万葉集にも碁師の歌が残されているところから、朝廷で保護され、そのレベルも高かったとみられる。
 
 一方そのころ将棋は、大将棋・中将棋という古将棋の時代で、貴族らがヒマつぶしに遊ぶ域を出なかったようだ。
 
 
 そして江戸時代に入るや、家康は碁所・将棋所を設立し幕臣として扶持を与えることになった。この時興味深いのは、本因坊算砂が大橋宗桂に将棋所を譲ったという事実である。本因坊が碁も将棋も強く、なにより権力階級に相当くい込んでいたからだ。これは日本へ渡来してから碁は長く、将棋は改良という過程を踏んだため日が短いという理由もつけられる。しかし歴史を見ると、どうもそうばかりではないようだ。
 
 本因坊は日蓮宗の坊主だが、本職よりも碁で知られ、信長の寵愛を受け「その方はまことの名人」と称えられた。例の本能寺の変の前夜にも信長の前で碁を打っている。そして信長から秀吉、家康と時の権力者に可愛がられた。一方の将棋指しは、信長、秀吉時代には名前が出ていない。
 
 
 すなわち碁・将棋所ができる時点では、碁はかなり上層階級に広まり、将棋はそれほどではないと想像できる。そして共に同じ家元制を作り、幕府からの扶持も同じでスタートする。江戸時代に入っても、川柳やこっけい本に登場するのを見ていると、将棋は庶民層に圧倒的に多い。
 
 将棋家元は幕府のわずかな扶持と免状お稽古料が収入であるが、当時の番付を見ても、殿様や上級武士は少ない。家元の暮らしはそう楽ではなかったようだ。

 
 前回よりも、内容が身近になって感覚がつかみやすい。時代劇で碁盤や将棋盤を挟んでいるシーンも時々見かけ、イメージがわきやすい。
 
 (5)へつづく

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