埋もれた将棋名作ルポ『泪橋のバラード』その4 (全7編)
1986年の将棋名作ルポを紹介する連載記事の4回目。
前回は、目的のクラブに深夜入り、1局指したところまで載せた。そして湯川師匠とその相手は、すぐさま駒を並べだす。
この、駒を並べるところで、相手が観戦している人と、「ここはすぐ同じ相手とできるから煩わしくなくていい」という会話をする。
これはちょっと意味が分からないかもしれない。多くの将棋クラブでは、入店時に『対局カード』(あるいは手合いカード)をもらい、1局終わるごとに席主のところに渡しに行くシステムになっている。席主のところ、などといっても、分からない人がいるだろう。まぁ銭湯の番台みたいなものだ。いや、これだと若い人はもっと分からないだろう。ようするに会計場所だ。その会計場所に、対局が終わると、勝った人が2人分、自分のカードを上にして持っていくわけだ。
そして席主がカードに勝ち負けの印を入れ、それをふまえて次の相手を決めて、「○○さん、○○さんとね~」などと手合いをつける。こういったちょっと面倒な手続きをするのは、同じ棋力の者を対戦させたいからだ。対局カードには棋力を書き込むのだが、大抵の者は低く書き込む。段位詐称が日常茶飯事なのだ。中にはアマ4段の実力があるのに「3級」と書く者もいる。
ただ、小さなクラブでは、適当に好きな人と指し続けてくださいというシステムのところもある。システムというより、単に構わなかったと言うべきか。
中央線の立川にあった将棋道場もそうで、ぼくは以前、早指しのおじいさんと20局くらいやったことがあった。終局後に感想戦など一言もなく、すぐ駒を並べ始めるのだった。おじいさんは無口で、途中、となりの中華料理店につまみの出前を頼むとき以外、黙々と盤を睨んで駒を動かしていた。そして、ぼくが長考の兆しを見せようとするときだけ、顔を上げてジロッとぼくを睨んだ。
湯川師匠の将棋ルポ、『泪橋のバラード』は2局目に続く。次の小タイトル分、一気に載せてみよう。
座布団が多いわけ
2局目を始めてすぐ、あのカーテンを押し上げて新客がもう1人。まだ12時前だが、壁際に3人が、座布団を3枚敷いて、もう1枚を二つ折りにし、計4枚で簡易ベッドがわりに寝床を作っている。
座布団がたくさん要る訳が、これで分かった。そして、枕がわりの座布団には、一様にスポーツ新聞をかけてあって、その上に頭をのせている。私も後で真似してやってみたが、ノリの利いた枕カバーのようで、結構気持ちよく寝られた。やはり、直だと、ちょっと不潔という感じになる。
3人ともかなり老人に見える。中でも真中の老人は、顔色が悪く目が窪み、ゴワゴワとやせていて、へんないびきをかいて、そおっと横になっている。枕元には、ビニールのかかった大きな紙袋が1つ置いてある。そういえば、壁際には、紙の袋やら大きなボストンバッグやらがずい分置いてある。よく見ると、荷物がゴロゴロ置いてあるところに小さな貼紙がある。
顔をくっつけて読むと、「ここに置いてある荷物が無くなっても、責任は負いかねます。貴重品はお持ち帰りください」とある。要するに、ここを巣のかわりにしている連中がいて、荷物を置きっぱなしにしているのだろう。私のことを、「この人は筋がいいよ」と褒めてくれた純さんに聞く。
「ここは600円で泊まれるんですね」
「でもネ、昼間は寝ちゃいけないんですよ」
昼間もクラブに寝に来る人がいるのか。
「昼も結構入るんですか」
「そりゃ昼の方がうんと多い。あんた、昼も来なよ。強い人がいるから。なにしろここは、ヒマ人が多いからネ」
「ここら辺は、いくらくらいなの」
「2000円出せば、きれいでカラーテレビもある。木造でベッドならもっと安いのがいくらもあるけど、あんなとこ泊まれないですヨ、あなた」
来る途中で見た中に、1000円くらいのもあった。でもなんか、かゆくなりそうなところだった。純さんはしきりにあんなとこと言いながら、ワンカップをちびりちびり。
将棋クラブはそこへいくと安いものだ。広さもあるし、暖房も利いてる。1日いても600円だ。顔色の悪い老人は、毛布を掛けている。持参のものらしい。2局目を指してると、新客が、純さんと話しはじめる。低い声だが、切れ切れに話が聞こえてくる。
「……ずい分久しぶりだねェ。元気そうでよかったね」
「……まぁな。チイッと……へ行ってたよ。それよりあんたは……」
「いやだめなんだよ。ここんとこ」
「今は赤羽の方がいいってゆうぜ。東北新幹線の工事がまだ……という話だぜ。ところで…… さんは」
「それがよォ。気の毒にね、この間……っちゃったんだよォ」
「えーッ、あの人が。へえー。いい人だったっけがなぁ……」
都内で終電後まで呑んで、新宿将棋センターで指しながら始発を待った経験はある。でも、ここの人たちのは意味合いが違うだろう。湯川師匠が書いているように、ここが巣なのだ。荷物を他に持っていけと言われても、運び込むところなどないだろう。
みんなの娯楽スペースを生活の場にしているというのは、かなりすごい人生だ。もう、視線とか気にならないのだろうな。元々の気質なのか、慣れてしまったのだろうか……。
(その5)に続く