『囲碁と将棋はどう違う?』(7)
(マガジン『作家・湯川博士』)
湯川博士著、『なぜか将棋人生』に収められた一つの章、「囲碁と将棋はどう違う?」を紹介している。1986年発行の単行本だ。
この連載7回目にして、ようやく、今の「将棋連盟」の発足だ。こうして見ると、たしかに囲碁将棋は日本古来のものだと言える。ずっと遡っていかないと、現在までの流れがつかめないからだ。湯川師匠はだいぶ端折って書いているが、それでもこれだけかかるのだ。
スポーツや、他のゲーム、競技とは、やはり歴史が違う。これに近いのは「競技かるた」だろうか。
将棋連盟の発足
将棋界は、木村義雄が初の実力名人につき、非常な将棋ブームを迎えた。木村が庶民から上層階級まで広く支持され、そのように努力した功績は実に大きい。関西の雄坂田三吉との「南禅寺の決闘」や花田との名人争いなどは大衆の将棋ファンを獲得した。
囲碁・将棋とも実力名人戦の時代を迎えて大いに盛り上がったが、第二次大戦ですべて破壊され、戦後は再びゼロから出発することになる。囲碁は棋院本部を柿の木坂の岩本薫邸に置き、対局場はその時々によって愛棋家の世話を受けた。棋戦の方は、本因坊戦と大手合い、それに在野の天才・呉清源と人気棋士との番碁が行われた。
そして昭和25年に橋本宇太郎が岩本から本因坊を奪うや、関西棋院の独立宣言をする。もともとあった組織だが、免状発行を実行したことで対立をハッキリさせた。さらに橋本本因坊継承式の席上、本因坊戦を従来の2年から1年にする旨が発表された。これは、木村が塚田に奪われ、すぐまた奪回するというスピーディーさで大衆を沸かせている将棋界に刺激されたのである。
棋士だけで運営の将棋界は、戦後すぐに従来の慣習をいっさい捨てる新構想、オール平手、段無関係の「順位戦」を打ち出した。そして名人戦掲載の毎日と日本ハップ社(製薬会社)の提携によって21年5月にスタートした。
制度面ではリードしていた将棋界だが、肝心の組織は任意団体のままで、営業上なにかと不便。そこで24年7月に、社団法人・日本将棋連盟として発足させた。社団法人は会員が出資金を出し合う形だが、当時の棋士は皆金がない。そこで新聞社の契約を一時立て替える形にしてなんとか許可がおりたのである。会員は四段以上の棋士というのは、今も変わらない。
将棋の団体は「将棋連盟」だが、囲碁の団体は「囲碁連盟」ではなくて「日本棋院」。団体名に「碁」の文字がなく、ゲーム全般を意味する「棋」を使っている。
まるで、「棋」といえば、まずなにより囲碁を連想するでしょ。と言っているかのようだ。
浸透していないものには、ダイレクトな名前が必要だ。「モッズ」や「ゴスペラーズ」など、欧米では付けられない。実際モッズは、イギリスでライブをしたときは名前を変えさせられた。
音楽のジャンルそのものをバンド名にするなど、世間に浸透していないことの最たる証だ。日本で、「演歌歌手」とか「浪曲師」なんて芸名で活動できない。
「将棋連盟」は、この時点では団体名にわざわざ「将棋」と入れなければならなかったのだと思う。それくらい、世間に浸透していなかったのだろう。「将棋」が、ではなくて、「将棋を人に見せてメシを食うプロがいる」ということが。
浸透がイマイチだったからこそ、大胆なアイデアが採用されることになった。それが実力名人と順位戦。とても簡単で、勝てば地位が上がり、負ければすぐ下がる。人柄も権威も権力も同情もなにもなし。相撲は大関や横綱に上がる力士の星や成績が曖昧だが、将棋は最上位クラスのA級でいちばん勝てば名人挑戦者となり、名人と七番勝負で勝ち越せば名人になれる。単純で簡単。
(8)に続く