『麻雀放浪記』の阿佐田哲也は将棋ペンクラブ大賞の初代選考委員だった
『将棋ペンクラブ大賞』の最終選考委員を務めた人の1人が、作家の色川武大。その作家を知らないという人でも、「麻雀放浪記」の阿佐田哲也は知っていると思う。阿佐田哲也は色川武大の、麻雀小説を書くときのペンネーム。同じ人物だ。
「麻雀放浪記」はぼくがこれまでに読んだ小説のオールタイムベスト10に入る。影響を受けた作家が将棋ペンクラブに関りがあったことは、入会するまで知らなかった。毎年会報の秋号には歴代大賞のデータが載っていて、そこで知ったのだ。これを知っていれば3年早く入会した。将ペンは9000円の会費を損したわけだ。
その第1回の『将棋ペンクラブ大賞』の最終選考委員は、色川武大、山口瞳、中原誠の3氏。すごい組み合わせ。色川武大は、第1回のみの委員で、第2回からは三浦哲郎に代わっている。それも当然のことで、第2回の最終選考の前に亡くなったからだ。
第1回将棋ペンクラブ大賞は1989年。この年の観戦記部門の受賞は、大賞が井口昭夫「A級順位戦」米長邦雄-加藤一二三 で、掲載が毎日新聞の88.1.20〜。佳作が島朗「新人王戦」佐藤康光-富岡英作 で、掲載が赤旗の88.4.5〜。現在の大賞は年度ごとの区切りなので、この2作が一緒に受賞することはないのだが、この時はどういう区切りだったのだろう。謎だ。年ごと、というのではないはずだ。なぜなら、この第1回の最終選考会が1988年11月だからだ。billboard Top40みたいに11月初日~10月末日という区切りだったのだろうか。
色川武大の亡くなったのが1989年4月10日。最終選考委員を務めて、半年もない。彼が亡くなったのは事故ではなく病気なので、だいぶ身体にガタがきていたはずだ。元より持病を抱えていた人だし。おそらく不調をおしての選考業務だったのだろう。
色川武大は直木賞を獲っているが、一般的に最も知られているのは、別のペンネーム阿佐田哲也での作品、『麻雀放浪記』だろう。ついでに書いておくと、井上志摩夫というペンネームも持っていた。これは昭和30年代に時代小説で使っていた。
「麻雀放浪記」を簡単に説明すると、戦争が終わったばかりの混乱期の東京が舞台で、仕事のない主人公が麻雀で凌いでいくというお話。魅力的なライバルが主人公を囲んでいて、今でいうところの『頭脳バトル』の小説だ。
これは映画にもなった。本は4巻に分かれていて、映画になったのはそのうちの1巻の青春編。主人公が若く、疾走感のある巻だ。
1巻「青春編」は、疾走感もそうだが、勢いがある。戦後すぐという、煮えた鍋のような時代背景が大きい。麻雀で戦う相手に進駐軍が出てくるし、登場人物から死人も2人出る。それもその時代特有の死に方。1人は進駐軍にはねられて、そのまま車に積まれてしまう(だから正確には死んだかどうか分からない)。もう1人は身ぐるみ剥がされてドブに捨てられる。考えてみれば、今の時代は道の端にドブもない。
この巻の持つ勢いは、誰もが強い態度に出ないと他人に食い殺されてしまう! という過酷な時代から来ているのだろう。
2巻「風雲編」は、1巻よりはちょっと時代が落ち着いている。だからなのだろうが、1巻よりも切羽詰まった感が薄れ、ちょっと遊び心の見える進行になっている。
この巻は大まかに言ってしまうと、大阪に遠征して関東とは違うルールの麻雀で勝負してくるという話。主人公の充実期でもあるので、痛快さが全編覆う。野放図に行動してピンチを招くが、するすると乗り切るのだ。1巻ではライバルに負けずに食らいつくという感じだが、2巻は積極的に勝ちにいくという感じ。
3巻「激闘編」は、主人公が衰えを見せてくるという巻になっている。書かれてはいないが、おそらく年齢からいったら20代後半から30代に入りたてではないか。通常の生活であれば活きのいい年代だろうが、野良犬のような生活では、もうトシなのだ。気力体力共に下降し、主人公もそれを意識して悩む。
そしてまた、戦後混乱期を勝ち抜いてきた弊害が出る。つまり、落ち着きを取り戻してきた社会と折り合いが合わないのだ。半無法地帯で勝ってきて、手ごたえを感じただけに、法治国家では「生きる」という充足感が持てない。
自身の衰えと社会の成熟の両方に強い不満を抱えるその内容から、暗い雰囲気が漂う巻となっている。でもなぜか、「激闘編」。
4巻は「番外編」となっているだけあって、この巻の主人公ではなくなっている。主人公は勤め人になり、自分の周囲をうごめくアウトローたちを眺めるだけの存在になっている。1人称の書き方だが、3人称的な小説だ。主人公だけをとれば、もう完全に勢いは失われている。この主人公を元に映画などは作れない。全編出てくるが、活躍もしないし、魅力も何もないのだ。スポーツで言うところの審判の役目。
しかしぼくはこの4巻が最も好きだ。主人公に取って代わって出てくる人物が、すごい迫力で魅力があるのだ。この男は主人公とちがって悩まない。野良犬生活ができるかできないかなどと考えない。それをするのが当たり前なのだ。ここには1巻からの主人公のライバル、ドサ健も主人公として出てくるが、この2人に、生活を落ち着かせてしまった主人公がコンプレックスを抱えるのが、この巻全体に敷かれた下地となっている。
準主人公2人の天才的な技量。そして主人公の寂寥感。それがぼくにはとても響く。3巻までが序章と感じるくらい、4巻には魅力を感じる。
そしてこの4巻には、もうひとつ魅力がある。それは、スピード感だ。
麻雀放浪記が人気を得たのは、なによりも、当時万人にまで知られていなかったイカサマ技を世に出したことによる。「燕返し」や「ゲンロク」などの積み込み技だ。そしてそれらが分かりやすいように、麻雀パイが活字に並んで小説に挿入された。『 🀄 』のような記号文字だ。これが『 五萬・八ピン・南 』などと書かれていたら、この小説がここまで有名になっていたか分からない。端的に言うと『麻雀放浪記』が人気を博したのは、印刷の技術革新が一役買っていることもあるのだ。
その一目瞭然の分かりやすさが多くの読者を掴んだ。そしてまた、阿佐田哲也の説明が上手かった。
しかしどんなに上手くても説明は説明だ。どうしても一旦流れが止まる。ときには1ページ丸々イカサマ技の説明ということもある。仕方のないことだし、その説明があるから深い内容を持つ小説として、マニアックな読者から支持を得られたのだ。
しかしこの4巻では、もう読者が知っているという前提で書かれているので説明が端折られている。かなり捻ったイカサマ技でも、ちょっと説明するだけ。そのためスピード感が失われず、勝負の場面が流れのままにえがかれている。4巻まで達するほど週刊誌の連載が長く続き、イカサマ技が市民権を得たので、遠慮会釈なく書けるようになったのだ。
その話の腰を折らない文章が、この野生動物のような準主人公2人を、さらに壮絶なものにしているのだ。
それが、ぼくがこの4巻を好む理由だ。麻雀放浪記は高校のときに知ってから何度も読み返しているが、4巻はもう桁が違うほど読み返している。
色川武大がもっと長生きしていたら、将棋ペンクラブ大賞の選考委員を続けていただろうか。ぼくはなんとなく、ずっと続けていたような気がする。根拠はないけれど。
書き物が好きな人間なので、リアクションはどれも捻ったお礼文ですが、本心は素直にうれしいです。具体的に頂き物がある「サポート」だけは真面目に書こうと思いましたが、すみません、やはり捻ってあります。でも本心は、心から感謝しています。