革でのモノづくりの机の上に人生が重なって見えた勝手な話
多分きっとどこかには共感してくれるというか、受け止めてくれるという人
特にnoteを使って読んだり書いたりするのが好きな人だったらいるんじゃないだろうか?
人が書いた文章を読むのが好きな人の想像力と情景力に頼ります。
今回は革にまつわることはあんまり関係ない話で、作り手である僕が勝手に感じて、好き勝手に書いた、なんと言えば良いでしょう?
インターネットという宇宙の中のチリにもならないゴミみたいなもんでしょう。
まぁそれこそがネット上に溢れるブログというものでもあるはずです。
そんな話を勝手にする。
何かを感じ、思ってくれたあなたはきっと僕とは既に友達以上でしょう。
革だけにとどまらず
モノを作ってたら
集中してたら
知らぬ間に・・
机の上だけで起こることなら、なんてことはないこと。
ですが
果たして・・
一つのモノを集中してつくるときにはいつもこんな調子です。
そうして最後の砦の位置で出来上がったら、一つのモノがカタチになったことを噛みしめながら、机の上を綺麗にするのです。
そうして次の革のモノづくり・・
勝手なこと、言います。
人生、一つのことをそればかりに集中して取り組んでいると自分でも気付かぬうちにあれも必要 これも必要と思いこんでいつの間にか埋まってしまった空間から、次第に残りの空いたスペースに追い込まれてゆく。
そして
最後の砦が寿命のときはそれまでで、あなたの人生「はい終わり」
最後の砦が精神的に断崖絶壁なら、そこで人生が詰む可能性がある。
一つのモノをつくるということなら、次がある、リセットがある。
人生にはそんなものあるはずがない。
最後の砦に着く前に、
自分が歩いてきた道が本当に自分が地に足つけて歩いてきたかってことを確認することの大切さ。
或いは途中で全てほうけだすことの大切さ。
はたまた、過去がどうかなんて関係ねぇって今を全力で生きることの大切さ。
そんな当たり前のことを勝手に言う。
言ったり、見たり、読んだり、聞いたりと・・
そんなんで簡単にやり直せるものなら、誰も何も言うことも必要もない。
もはや、遠い昔に自分の歩きたいと思っていた道がいつの間にか経ってしまった時間の経過でボーボーに伸びた草に覆われていたりして、道すら見えない時だって確かにある。
それでも目には直接見えてないだけで、草の下に道は確かにある。
でも
見えないから歩けない。
そんな身動きの取れなくなった自分に向けられる日差しをできるだけの力で避けながら、寝付けもしない暗い暗い夜を過ごす日々の中にあっても、
他人、友人、家族、誰も指針は示してくれず、ましてや、こちらを誰も見てもいない状態で自分自身の存在と矜持を自分自身で保持して生きることの難しさ。
保持できる人は頭の良い人?
自由人?
私とは何が違うんでしょう?
太陽の日差しをスポットライトに
月さえ出ていない暗い夜を平等に
捉えることが今すぐできたらどんなに楽でしょうか。
見方を変えれば、暇という時間をなくし忙しく毎日を過ごすということは確かに一つの保持を保ちやすい
だけど
気づいた時には・・ 「はい、終わり」
当然「はい、終わり」が悪いことなんてわけもなく、誰にも必ず起きること。
ただただ、いつの間にか必要だと思いこんでるモノに周りをぐるっと囲まれて、空いてる方に流れ流され、崖っぷちの最後の砦で必死に呼吸をしていません?
大きく息を吸って、いつだってmemento moriで生きていたいものです。
そうして、自分の道を自分で歩いて来たと確信しながら今のみに集中し生きた最後の砦であなたの人生「はい 終わり」で逝きたいものです。
最期の一瞬に後悔はしたくない。
この前、集中して一つのモノを作った後の散らかった机の上を見ながら人生が重なって見えてしばし呆然とそんなことを考えていたのです。
そうして思ったことを勝手に書いてみた。
やってみなくちゃ、なんにもはじまらないんです。
それをここまで読んでくれたあなたはきっとまがおうことなく自分の道を歩いている人であって欲しいし、まだ自分は・・な方はこれから歩いてゆける人であって欲しい。
読んでくれて感謝ですよ
こうして読んでくれるあなたは僕にとっての一つの光で道しるべ。
あ
全然病んではいません、
ただただ勝手なこと言ってます。
自分自身に言ってます。