得られない快楽につつまれて
遠野遥氏『破局』を読んで――
首をひねるとポキッと鳴った。いつかテレビで「首をコキコキし続けると脊髄を痛めて最悪の場合半身不随になる」と医者が言っていたことを思い出して青ざめたが、それが音と音の間だったから余計に申し訳なくなった。僕の寿命が縮まるのはよかったが、誰かにとってこの演奏会が、後生を変える感動的なものだとすれば、そこにノイズを散らしたことは、演奏会が終わったらすぐにでも謝りたい。そして寿命が縮んだことを告げると、いくらか同情的に許してくれるかもしれない。
退屈だったのは、ピアニストが肺の病気から快復した三か月ぶりの演奏会で、冒頭の曲に激しいパッセージのあるソナタを持ってきていたため、ミスタッチが多かったからだ。それをも気にしない豪快な演奏とも取れないことはなかったが、私にはところどころの来るべき音が来ないズレがノイズで、どうにものめりこめなかった。
音楽を聴くのは気持ちがいい。先人が受け渡してきた黒と白の音符を、いかに解釈し、それを耳の超えた大勢で見守り、「プレストの前に溜めたのが、ライブ感があったよかった」などの寸評をロビーで聞きながら、ワンフレーズを口ずさみながら駅に向かうのは充実した一瞬である。
土台、僕にはそうした勇気はなかった。先人が積み上げてきた繊細な音の積み重ねに、自分で新たな音楽を生み出すというのは、やせ細ってやわらかい土の崖みたいになったジェンガから、一音ずつ抜いて上に積み上げていく行為と同じだ。高校生までピアノを続けたが、最後までエチュード以外を弾き切った、と思うことは無かった。その繊細な作業を芸術に昇華できたら、どれだけ気持ちが良かっただろう。私は後悔もあるが、そうした事業を完遂した演奏会に立ち会えると、悔いの分喜びもひとしおなのだ。
また無意識に首を鳴らしていたらしい。私は首の骨を削り、寿命を減らしている。逆ジェンガと言われると、居心地が悪いな、と思った。誰にも言われていないけれど、隣の落ち着いた薬草のような匂いの香水をつけている中年の男がこちらを横目で見ていた。彼もミスタッチが気になっている審美眼の強い男だと願いながら、軽く頭を下げて、身体を固定するために足を組み替えた。
また、ゴツゴツという鍵盤を叩く音ばかりが耳に入ってくる。音が十分に響いていないのだ。これは彼女だけでなく、ホールも悪いし、ピアノも悪いかもしれない。習いたてのピアニストの演奏会に行くのも、ピアニストの宿命なのだが、どうにも皆、あの岩を砕くような音が聞こえる。名盤と呼ばれる古いレコードにはそうしたノイズも収録した熱いものももちろんある。一概にすべてを否定することは、常識を打破できない機械的な人間になる、とこれは中学の美術の先生が言っていた。私は中学の記憶はその先生の言動しか覚えていないが、彼の数個の箴言を、中学校の思い出として大切にとっておこうと、無意識に実践している。だから、この殴打する音が悪いわけでなく、音が響いていないことが悪かった。
しきりに足を組み替えていると、香水のミドルが私の膝に触れた。「落ち着いて、きっとここから畳みかける彼女のパッセージが復活するよ」ともとれる、布越しにも伝わる温かさがあった。でも、横目と横目があったとき、それは険しかった。「解釈は人それぞれ価値観が違ってしまったら、違う。それをすり合わせる共感を表現でも鑑賞でも覚えておきなさい」。これもまた中学の美術の先生が言った。彼はどう思って、私の膝を包み込んでくれたのか、もし私をただ、コバエの様に鬱陶しがっているのなら聞きたくないが、少なくとも私の解釈は自由だから、前者として見直そう。
次の緩徐楽章は音符が少なく、奏者も悦に入っていたため、メロディは聴き取りやすかったが、音と音がよく途切れる瞬間があった。僕は退屈だと思うのを辞めて、何も思わなくなってから、身体の動きも止まった。たまに横目で見るミドルは、悦に入っていた。そのまま私の存在も忘れてくれたらいいと、ミドルに祈った。でもいわゆる超能力者ではないから、届かない。
この音楽は動いていて、隣人の息遣いまで聞こえるのに、自分は何にも感度が働いていないことが、前にもあったな、と思ったら、別れ際に持ち込まれるセックスとか、泥沼になった別れ話をする喫茶店とかの尻が冷たくなるときと同じだ。ホールの座席は長時間の尻骨への負荷を和らげるつくりだが、私の尻の体温はきっと今も下がっている。だからミドルの体温も生暖かくてよかった。
第二楽章から立て続けに入る三楽章は、徐々に大きくなる植物の早回し映像のような快活さが素敵な曲だ。かなり冒頭のテンポを落としていたので、緩やかに高まっていくテンポと興奮は非常によかった。私ははっと、少し宙にいた意識が自分の体に入ってくるのを感じた。主題が繰り返される中で左手の和声進行が激しくなる。私は自分もこの曲の楽譜を見たことがあるので、ふとももを鍵盤に手が動いてしまったが、ミドルも演奏に聴き入っていたので指導的言動はなかった。そうすると、前の人の頭はグレーの生え際から皮膚が見えすぎているがつむじの形は綺麗だ、とか、さらに前の右側の男が、男だと分かるが元カノに後ろ姿が似ているなとか、奏者の険しい山を登っているような、快楽と苦痛を同時に感受している様子がありありと見えた。
このホールには、さまざまな思いを持っている人が、音楽史にそれがどれだけ小さくても一つまみの砂を堆積させようとチャレンジする一瞬に立ち会う、大勢の人間がいる。それぞれが自分の感度でもって良し悪しを感じながら、彼女がベートーヴェンから与えられた物語を語っている。それぞれが、何かを考えている。それは「いい」とか「きもちいい」とかから、「こんな演奏を亡き妻と見たかった」「いまも苦しんでいる子どもたちが世界には少なからずいるが、……」「遺伝子がこうやって残る。これが人間参加だ」。
そうやって人が一つになる。それがよいコンサートのよいところだ。コーダで畳みかけるようにテンポをあげつつ、和音はしっかりと鳴らし続ける演出に、ミドルもやれやれと言った表情で首をふっている。
一度、音が低音部に沈み込んで再び浮上、第一主題の変奏をごうごうと奏で、曲が終わった。一斉に拍手が沸いて、中には目をぬぐう人もいた。埃が入っていたのか、落涙したのかは分からないけれど、少なくとも、僕の視界はそうしたドラマティックな所作がひしめいていて幸福だった。
だから、落ち着いたときに、ミドルがまた私を睨みつけていて、何ならミドルは帰り際、ロビーで連れの中年女に「演奏も細緻が欠けていてあんまりだったが、隣の男もうるさかった。最近はマナーがなってない」と怒りをぶちまけていて、悲しかった。
こんな日はセックスまではいかなくても、誰かの胸の中で唾液の分泌という絶対的な快楽を感じたかったが、音楽に疎い彼女とこじれて、そも二枚のチケットを一人で見た。もちろん、二人分の席を確保するゆったりとした鑑賞は大変よかったので、金を返せとはだれにも言わない。それでもストレスを何らかの形で外に出してしまうのが嫌だった。
こういったとき、落研の宇佐美なら、向こう十日間の食費を削っても風俗に行き、「得られない退廃に包まれて」コスパがよかった、と言うのだが、私は見ず知らずの他人に性器を握られるのは嫌からできない。
というか三楽章もよかったのか? ワルトシュタインはもっと誰かを思う曲じゃないのか。あんなに自分の感情を自分にぶつける曲という解釈が音楽史に堆積していくのか。
改札で残高不足で締め出されたとき、変形の黒ニットを着た女性が、公害をあしらうように僕を見て避けた。僕はその変形した右肩から胸の部分の皮膚をあからさまに見た。血管が少し見える活きのいいエネルギッシュさだった。舌打ちをされたが、残高不足はよくあることで、そんなに罪の意識を植え付けられるとこちらは損をした気分になった。家とは逆方向だったが彼女の同じドアから地下鉄に乗り込むと、あからさまに僕を避けて遠ざかった。その間もショートパンツからのぞく、わずかな尻の部分を見入ったが、間にいたラクロスをもった成人男性が蔑視を重ねていて、女があわただしく携帯電話いじりながら次の駅で降りたので、僕もその次の駅で降り、逆の電車を待った。前の駅で発車するとき、女は私を睨みつけていたが、窓や鉄製のドアに隔たれた僕には干渉できないので、奴隷市場で買わない奴隷を見ている気分はこうだったのだろう、と南北戦争前のアメリカの成功者と通じ合った。
思い立って自宅の最寄りの一つ前で降り、今はまだ彼女である女に向けて、哀願と感謝の気持ちで電話をかけたが、電波の届かないところにいるか、電源が入っていないという通知でない、「電話は通じない」的な通告を受けた。
こちらは感傷に浸って一駅分の距離を無駄に課金してまで生きているというのに理不尽だ。
私は、「花びら回転 3000円ポッキリ」と書かれた看板の前にいるベスト姿の男と目が合って、快活に話しかけてきて、数語交わしたが、「それで、今日は仕事帰りですか? スキッリしたそうな顔してますもんね」と黄色い歯を存分に見せてきて気持ち悪くなり、その前に大便してきます、という旨を遠回しに伝えて、家に帰って自慰をした。彼女から折り返しがない不安な気持ちが、なんだかたまらなく興奮したのだ。いつもと違うことは、いいことだ。これも、中学校の美術の先生が言っていた実践だった。