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自分の機微に注視する100日ドリル 10

さて、今日も書いてみよう。

昨日はなんか本の要約みたいなことを始めてしまって、本当の自分の機微が隠されている「図書館の隅で嗚咽」の部分を書くとこにいけなかったじゃんね。私は何を、「嗚咽するほどにかんじた」のでしょうか。
それを思い出したくてまた図書館に行き、同じ、小南奈美子『病は気から・NEW APPROACH』を読んだ。
あたりまえなのか?不思議なことなのか?同じように嗚咽には至らなかったのです。
昨日の私と今日の私は違うから?何が違うのかな?マインドや身体の状態が違うのかな?「すごいことが書いてあるな!」という驚きや発見の喜びが、二度続けて読むことで薄まるからかな?
でも、同じことをして、今ここで自分の機微に注視することで、涙を流した時のことを思い出した。

「今、私が涙を流していること」が「真実」であって、それがはじまりだ。という感覚があったんだった。そして、身体が涙を流してるんだ。感情が感動してるんだ。私はなぜ涙を流しているんだろう?ナミさんの人生をかけた研究の素晴らしさとそれを見せてくれることの喜び、それから得た自らの気づきにに感動をかんじてるのかな?そんな「理由」よりも前に、身体もマインドも一体になってかんじているからなのかな?なんて「思考」がけなげに説明しようとしてた。
思考って、めっちゃ、はかなくて、けなげやな。「真実」の前では、「感覚」や「感情」の前では、めっちゃ、おぼつかないな。その子どもみたいな私の中にある存在をかんじてか、また今ちょっと目がうるんだ。

感じるって。感じてることを、感じてるって、感じきるって。感じてるという真実を感じるって、それを毎瞬間できたら、どんなふうなんだろう。今は、おそらく考えることが優位になってる気がするから。

そして、そう。そうして涙を流してるとき、子どもたちのことも感じた。子どもが、怒ったとき、泣いたとき、いつも私は「なぜ泣いてるの」「わからない」「わかるように言って」なんて責めるように言った。私でさえおぼつかない「思考」に、子どもの思考に頼るなんてむごいね。
きみが泣いてることが「真実」で、感じてることが涙になってるだけなのにね。感情や感覚が物語っていることだけで、人間はコミュニケーションできるのかもね。それを、一緒にかんじて、掬い上げたら、ゼロになって、そこからプラスのエネルギーがわいてくるんだって、ナミさんも書いてた。

昨日の夜、長女と布団に入ったら「こわい」と言ってた。「全部がこわい」って。私は「何がこわいの?わからない」て言った。理由なんてぜーんぶの後だ。きみが「こわい」と感じた。がんばって、「全部がこわい」と言葉にしてくれた。それだけでよかったのに。それをそう感じたことを、私は掬い取ってやれない母親だから、やっぱり失格だ。って、わたしはかんじてるよ。今。自分にさびしさをかんじてるようだ。がっかりしてるようだ。やはり、感じることのとぼしさ、それは愛の状態からほど遠い、という絶望感か。
私は、わたしのさびしさと絶望感を感じきり、自分で掬い取り、ゼロになろう。そのためのドリルだな。これは。

許したまえよ、私よ。私を。
おわり。

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