日本思想史 ~神話から江戸時代まで~ 哲学散文14
はじめに
これまでの哲学散文では西洋哲学と東洋思想を中心に見てきました。
ここまできてようやく日本に入ります。
私もようやく日本に入れる・・・と
どこか感慨深げであります。
私自身の本来の専門というか得意分野はやはり日本思想
とりわけ日本近代哲学(明治期以降)になります。
そこに早くいきたいがために神話から江戸時代までを1記事にまとめることどうかお許しください。
本来であれば古事記から聖徳太子、日本仏教の各宗派の開祖、それから武士道を細かく見ていきたいのですが、いかんせんキリがないのでその辺は今後、ネタが尽きてきたらということにさせてください。
では、早速はじめていきましょう。
日本思想の多層性と連続性
日本の思想は長い歴史の中で多様な要素が層を成しながら発展してきました。
神話的世界観、大陸(中国)からの仏教や儒教の影響、そして日本独自の展開が織りなす豊かな思想的伝統は、現代の日本人の基盤となっています。
今回は神話時代から江戸時代までの日本思想の流れ(約1000年分)をざっくり紹介し、その特徴と意義を語っていきます。
日本神話と古代思想
日本の思想的基盤を探る上で、まず『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)に描かれた神話世界に目を向ける必要があります。これらの神話は単なる物語ではなく、古代日本人の世界観や価値観を反映しています。
例えばイザナギとイザナミによる国土創成の神話は、男女の調和や生命の循環といった概念を表現しています。
また、天照大神(アマテラスオオミカミ)と須佐之男命(スサノオノミコト)の物語は、秩序と混沌、文明と自然といった対立概念を象徴的に描いています。
特筆すべきは天照大神が他の神々を祀る存在でもあるという点です。
これはキリスト教やイスラム教の唯一絶対神とは異なる多神教的な世界観を示しています。
これらの神話は後の神道の基礎となり、自然との調和や先祖崇拝といった日本的精神性の源流となりました。
神道の基本思想には以下のような特徴があります。
アニミズム的世界観:自然のあらゆるものに神が宿るという考え方
現世肯定的態度:この世界を穢れたものとせず、肯定的に捉える姿勢
調和の重視:対立よりも融和を重んじる傾向
6世紀頃、仏教が日本に伝来し、既存の神道的世界観と融合しながら日本的な発展を遂げていきます。
聖徳太子(574-622)は『十七条憲法』において仏教思想を政治理念に取り入れ、「和を以て貴しと為す」という日本的調和の精神を説きました。
特に注目すべきは、聖徳太子の第10条の教えです。「我が聖にあらず。彼必ず愚にあらず。ともにこれ凡夫ならくのみ」という言葉は、自他の平等と謙虚さを説いており、日本的な調和の精神を表しています。
奈良時代には鑑真や最澄、空海といった僧侶たちによって様々な仏教思想が導入され、日本の精神文化に大きな影響を与えました。
この時期の仏教は国家の安泰を祈願する鎮護国家の役割を担っており、僧侶は国家公務員のような存在でした。
平安時代の思想
平安時代(794-1185)に入ると、仏教はさらに日本化が進み、真言宗や天台宗が大きな影響力を持ちました。空海の真言密教は、宇宙の真理を象徴的に表現する曼荼羅の思想を広め、日本の美意識にも影響を与えています。
この時期「もののあはれ」という美的・哲学的概念も生まれました。
紫式部の『源氏物語』に代表される文学作品にも表れているこの概念は、物事の無常さを感じ取り、そこに美を見出す日本的感性を表しています。
また、和歌や物語文学の発展は日本独自の美意識や思想を育む土壌となりました。
紀貫之の『古今和歌集』序文は、和歌の本質を「人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」と表現し、日本的な言語観や心情主義の基礎を築きました。
中世の思想
鎌倉時代(1185-1333)に入ると、新たな仏教思想が台頭します。
法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、道元の曹洞宗、日蓮の日蓮宗など、より庶民に近い仏教が広まりました。
特に注目すべきは禅宗の影響です。
栄西によって伝えられた臨済宗や、道元が開いた曹洞宗は、日本の文化や美意識に深い影響を与えました。
禅の思想は後の茶道や武士道にも取り入れられ、日本的な精神性の重要な要素となりました。
法然は末法思想に基づき、ただひたすら念仏を唱え続ける(専修念仏)ことで阿弥陀仏の力(他力)によって浄土へ向かうことができると説きました。
親鸞は法然の教えをさらに徹底し、絶対他力を説きました。彼の「悪人正機説」は、凡夫という自覚を持つ悪人こそ阿弥陀仏の救いを受けるにふさわしいという独特の思想です。
一遍は「南無阿弥陀仏」こそが真の実在であるとし、全国を遊行して念仏を唱えながら踊る踊り念仏を広めました。
日蓮は『法華経』を第一の教えと考え、「南無妙法蓮華経」を唱えることによって救われると説きました。彼は他宗を批判し、法華宗への改宗を促しました。
この時期、武士階級の台頭とともに武士道の思想が形成されていきます。『平家物語』に描かれる無常観や、『徒然草』に見られる処世術的な思想なども、中世日本の精神性を反映しています。
神仏習合も進み本地垂迹説(仏や菩薩が神として現れるという考え)などが広まり、日本独自の宗教観が形成されていきました。
近世(江戸時代)の思想
江戸時代(1603-1868)は、日本思想史において極めて重要な時期です。この時代、儒教(特に朱子学と陽明学)が公的イデオロギーとして採用され、武士の教養の中心となりました。
朱子学は理気二元論や性即理の考えを基礎とし、道徳的修養と学問を重視しました。林羅山は朱子学を幕府の官学として確立し、上下定分の理を唱えて身分制度を正当化しました。
一方、陽明学は心即理を説き、より実践的な道徳哲学を展開しました。
中江藤樹は陽明学の祖として、孔子が説いた孝を人間愛、さらには万物を貫く道理へと拡大解釈しました。
古学派の伊藤仁斎や荻生徂徠は、儒教の日本的解釈を試み、独自の思想を展開しました。
特に伊藤仁斎は『論語』を「宇宙第一の書」と評し、その古義(もともとの意味)を究明する古義学を提唱しました。
国学も大きな影響力を持ちました。
本居宣長は『古事記伝』で日本固有の思想や文化の価値を主張し、「もののあはれ」を重視する日本的感性を再評価しました。
また、石田梅岩の石門心学のように、町人の実践的な道徳哲学も生まれました。商業道徳と儒教的な道徳観を結びつけ、庶民の間に広まりました。
さらに、安藤昌益や三浦梅園のような独創的な思想家も現れ、既存の思想体系に捉われない新しい世界観を提示しました。
安藤昌益は『自然真営道』で万人が農業に従事する理想社会を描き、幕藩体制を批判しました。
江戸時代の教育
江戸時代の教育は、儒学・朱子学を中心に展開されました。
主な教材として「四書五経」が用いられ、その他にも「孝経」「小学」「近思録」などが学ばれました。
教育方法としては、以下のようなものがありました:
素読:経典を音読し暗記する
講釈:教員が経典を解説する
会読:生徒同士で経典を読み合い議論する
多くの藩が藩校を設立し、武士の子弟教育を行いました。
会津藩の日新館:「什の掟」などの道徳教育を重視
熊本藩の時習館:「四書五経」を中心とした教育を行う
水戸藩の弘道館:「神儒一致」「文武一致」などの理念を掲げる
また、寺子屋や私塾が各地に広まり、庶民の教育レベルが向上しました。読み書き算盤などの実用的な知識が教えられました。
武士道と倫理
儒学の影響を受けた武士道が発展し、「忠義」「名誉」「廉恥」などの価値観が重視されました。
山本常朝の『葉隠』に代表される武士道思想が広まりました。
洋学の導入
江戸後期になると蘭学をはじめとする洋学が導入されました。
医学、天文学、軍事技術などの分野で西洋の知識が取り入れられました。
江戸時代末期の思想的状況
江戸時代末期には、これまでの日本思想の集大成とも言える状況が生まれていました。
神道、仏教、儒教、国学、そして様々な民間信仰が複雑に絡み合い、日本独自の思想的土壌を形成していたのです。
この時期、蘭学を通じて西洋の科学技術や思想が少しずつ日本に入ってきており、日本の伝統的思想と西洋思想との出会いの前夜とも言える状況でした。
日本思想の特徴として以下の点が挙げられます:
多様な思想の共存と融合
現世肯定的・実践的な傾向
自然との調和を重視する世界観
「和」や調和を尊ぶ姿勢
感性や情緒を重視する傾向
これらの特徴はその後の近代化の過程でも失われることなく、日本的な近代思想の形成に大きな影響を与えることになります。
明治時代の「教育勅語」や修身教育にも儒教的な価値観が色濃く反映されており、その影響は現代にまで及んでいます。
また、江戸時代の漢文教育は明治以降も続き、今でも共通テストの問題として採用されるなど、現代の高等学校教育にまで影響を与えています。
このように江戸時代の思想は、日本の教育や道徳観に長期的かつ深遠な影響を与え続けているのです。
次回予告「福沢諭吉」
次回はこの豊かな思想的伝統を背景に、慶應義塾の創立者でもある福沢諭吉を中心とする日本の近代思想の展開を見ていきます。
西洋思想との本格的な出会いが、日本の思想をどのように変容させ、また日本独自の近代思想をどのように生み出していったのか、その過程を探ることで、現代日本の思想的基盤をより深く理解することができるでしょう。
ここまで書いて我ながら日本史の教科書まとめを作成しているような気分でした。
日本人としての教養として振り返りや大学受験などで勉強した方には懐かしいと思ってもらえたのではないでしょうか。