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開いてはいけない本

 雨ばかりの9月が終わり、秋の虫が鳴き出すころ。私はお寿司を縦に二貫重ねたような古い小さな家に引っ越した。一階、二階、それぞれ12帖の長方形の部屋から成り立つこの家は、油断すると外壁の隙間から見知らぬ花が咲いたりする。外から見ると風呂場には窓があるのだが、風呂場に入ると窓はないといった不思議な改修がちりばめられていたが、なんとも落ち着く家だった。たとえ鍵をかけていても、強くひねれば開いてしまいそうな玄関のドア。一階にはキッチン、お風呂、出窓がひとつと、対面に小窓がひとつ、階段下の三角スペースにトイレ。そして左右それぞれの壁になんとか押し込んだ大きな本棚がふたつずつ。なかなかの圧迫感で、本棚に住んでいると言った方がいいような趣だった。細い階段を登って二階の北側、窓の前には机と椅子。南側には引越し祝いにと友人が贈ってくれた琉球畳が四畳半分引いてある。そこに布団を敷いて寝た。久しぶりの布団の生活は高く感じる天井が心地よく、朝起きた時の畳の匂いも気に入っていた。
 左隣は空き家で、右隣の一軒家には猫だけが住んでいる。一日に二回、白髪頭のおじいさんが餌をあげにきていた。「こんにちは」と挨拶するといつも「ああ」とか「おお」と答えるだけなので、私も特に返事を期待しないようになった。時々室内から猫の鳴き声が聞こえるのだが、その姿は一度も見たことがなかった。ある日を境にピタリと鳴き声が止んで、おじいさんの姿を見かけることもなくなってしまった。あの声だけの猫たちが、どこかで元気にしていることを今も願っている。

 この家には、夜になると近くの動物園から野性の呼び声がこだまする。おそらくはフラミンゴのような鳥だろうか。時折アフリカの方から、その鳴き声に応えるように声が届く。動物園とアフリカ大陸、それぞれで呼びかわしあっている愛の言葉が私の家の屋根の上を飛び交っている。実際に何かケモノの足音が深夜に屋根の上を駆けていくのを聞いたこともあった。
 動物園の隣には大きな池があり、お酒を飲んだあとの明け方には、この池のほとりを歩きながら帰った。数種類のボートが眠るようにして夜の水面(みなも)に浮いている。少し酔った頭で「海を知らないボートたち、なんだか私と似ているね」と勝手に思っていたが、ある時、この池の正しい由来を知った。縄文時代にはこの辺り一帯が海であり、この池は地殻の変動により取り残された、小さな海のかけらだった。何千年もの間、この地に水を湛えているらしい。ボートたちは海を知っていた。以前よりも少し彼らが誇らしく佇んでいるように見える。昔の人たちもこうして水面の月を眺め、夜の青さに思いを馳せたのだろうか。



 そんな新しい街で大きな本棚に挟まれた暮らしが始まった頃、私は実際に本の中に住んでいる生き物に出会った。
ある日、友人のアトリエを訪れ、本棚を物色して一冊の気になる本を取り出した時のこと。その本は随分と古い美術書で厚紙のケースに収められていた。本の背をつまみ、数センチほど本をケースから引き出したところ、銀色に光る、ぬるりとした虫が這い出してきて私は声にならない悲鳴をあげた。
「いつも落ち着き払った低い声なのに、そんな高い声も出るのね」と彼女は私に冷静なコメントをした後に
「その虫、もう一度本の中に閉じ込めておいてね」と言った。
のちに知ったところ、この虫は紙魚(シミ)という本の紙やデンプン質のノリを食べる書籍害虫であり、銀の鱗を纏ったようなその姿は英語ではSilver Fishと呼ばれているそうだ。その寿命は約8年と長く、何も食べなくとも平気で一年は生きるらしい。本を食べて生きるのならば、その体には多くの物語や言葉が詰まっている。いつかお気に入りのあの本も食べさせてみようかと思う。どのページが美味しくて、一番まずい言葉は何なのか。少し不気味な見た目とは裏腹に、知識の虫なのかもしれない。
 本に戻った虫のことが気がかりだったが、彼女はコーヒーを入れてくれて、私たちはこれまで言えなかったこと、言わなかったこと、たくさんの話をして別れた。彼女と会ったのはそれが最後だったので、あの時なぜ彼女は「もう一度、本に閉じ込めておいて」と言ったのか、全くもって分からぬままだ。


 アトリエで過ごした10月の半ばの肌寒い夜。確かに存在するものの、二度と開かれることのない本は星の数ほどあり、その中で彼らは暮らしている。決して開いてはいけない本が存在する。古い本を開くとき、私は臆病になる。


           


【本棚の海】



ときに溺れ

ときに釣られ

ときに食われ

ときに子を産み

銀色に輝く鱗で水面を跳ね

真珠色の句読点を打ち

ページの上をすいすいと

泳ぎだすような

言葉の尾びれを

掴み損ねて 秋が来る




                  *****




6年ぶりにnoteを開いて過去の記事を眺めると、長い長い時の経過を感じてしまう・・・トオイメ。
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読書や本にまつわるエッセイを、ぱらぱらと載せてゆこうかなと。初回は季節外れの秋のテキストですが、お読み頂けたら嬉しいです(敏)





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