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ボブ・ショウ「去りにし日々の光」書評
今週2本目の書評は、竹中菜南子さんです。イギリスのSF作家ボブ・ショウの短篇を書評していただきます。
ボブ・ショウ「去りにし日々の光」(大森望編『時間SF傑作選 ここがウィネトカなら、きみはジュディ』ハヤカワ文庫、2010年)
評者:竹中菜南子
私たちが過去を思い出として振り返ることができるのは写真、動画などによってだ。それらはその当時の状況を鮮明に現在まで残すことが出来る。しかし、鮮明に記録を残すことが出来ていても、当時の感情までは映し出すことは不可能である。この「去りにし日々の光」では過去に囚われたまま生きている人物が登場する。思い出の中で生き続けること、それを直視してしまった主人公とその妻は何を思ったのだろうか。
主人公の「わたし」とその妻で妊娠もしているセリーナは休暇の旅行で訪れた先のスロー・ガラスを売る店を訪れる。そこには小さな家があり、窓からは家の中で子供と店主の奥さんが見えたが、こちらには見向きもせずに部屋の奥へと行ってしまう。店主と家の外で夫婦が買うか否か検討しているスロー・ガラスとは、光がガラスの板を通り抜けるのに長い時間がかかるという商品である。それは例えば森の湖の辺に1年間、スロー・ガラスを放置しておけば、そのガラスには1年の間、森の湖を見晴らしたような風景が映し出されるが、1年経てばその効果は消えてしまうということだ。そのうち雨が降ってきてしまい、「わたし」は購入を決め小切手を書き、店主は商品を取りに行く。その間家の軒下に夫婦は雨宿りする。窓からは店主の奥さんと子供が遊んでいるのが見える。しかしこちらには反応を示さないことに「わたし」は違和感を感じる。セリーナが庭で座っていた敷物が濡れていることに気づき、それを持って家の中に入ると、そこは窓の外から見えたような風景はなく、散らかった家があった。家の窓はスロー・ガラスであり、見ていたのは過去の風景であった。店主は帰り際に「わたし」に「あれはわしのせいじゃない」と、ふたりが轢き逃げにあったことを伝えた。「わたし」は妻を抱き寄せ支えながら家をあとにした。
序盤、「わたし」は妻が妊娠したことに怒りを感じている。子供を作るならもっと先だと考えていたと「わたし」は主張する。しかし話の最後では妻を抱き寄せ、妻のすがる両腕の感触をいとおしいと感じている。それは過去の妻と子供に縋る店主の姿を見てしまったからだろう。過去の妻と子供はこちらの反応には示さず、家の外から眺めることしか出来ない。それでも店主は何かを残しておきたいと考えたのだろう。店主が「わたし」を引き止めてまで言った、「あれはわしのせいじゃない」「わしにだって何かを残しておく権利はありましょうが」という言葉はスロー・ガラスを過去に縋るという使い方をした自分を責めないで欲しいという主張に聞こえた。「わたし」は今ある現実をセリーナの両腕に感じ、決して離してはならないものだということ、子供を授かることの重大さに気づいたのかもしれない。
現代にはスロー・ガラスなどという魔法の道具はまだ開発されていない。しかし、遠くの綺麗な景色はインターネットを使えば直ぐに見ることが出来る。過去の情景もカメラを使えば収めておくことも出来る。スロー・ガラスのように窓の中に風景や昔の家族の姿を映し出すような技術はもうすぐ完成するのではないか。いつの日かこの物語の店主のような孤独に苦しむ人が、亡き家族を思った生活を送ることが当たり前になる日が来るのかもしれない。過去のその日の感情までも思い出すような、過去に囚われ、孤独になってしまった人の光になるような魔法の道具が完成するのはすぐのことではないだろうか。