小沼丹「懐中時計」書評
今週1本目は小家康寛さんの書評です。
小沼丹「懐中時計」書評(群像編集部編『群像短篇名作選 1946〜1969』収録)
評者:小家康寛
懐中時計。文字通り懐に入れて持ち歩くことができ、現在の時間を確認するための道具である。今となってはその存在は腕時計を経て携帯やスマホに取って代わられ、わざわざ懐中時計を使う意味などは無くなって久しい。しかし現代においても実用品としてはともかく、美術品や骨董品としての懐中時計は多数存在しており、そういったものをあえて身につけることで、風格をまとうことができる。
本作の登場人物の上田友男も、当時既に物好きしか買わないような道具になっていた懐中時計を実用品として持ち歩く人であった。十年ほど前のある晩、主人公の「僕」が上田と一緒に酒を飲んだのちに腕時計をなくし、上田はそんな「僕」に対し、今は使っていないロンジンの懐中時計をいくらかの値段で譲ってやってもいい、と言う。「僕」と上田は何度もその懐中時計をいくらで売買するかの話し合いをするも、結局のところ懐中時計を譲り受けるどころか、一度も実物を目にすることなく上田は亡くなり、話は終わってしまう。
本作におけるロンジンの懐中時計は、「僕」視点では上田がいることで存在が保証される道具として描かれている。本当に懐中時計が存在するかしないかは別として、「僕」と上田が会話をする限り、その背後に「ロンジンの懐中時計」は「ある」のである。
これの意味するところは、この懐中時計とは「僕」にとって上田を、上田にとって「僕」を友人として留めておくためのものなのだと思う。事実、徐々に懐中時計の話をしなくなり、最後に上田に会った時には時計の話は一度も出なかった。決して会わなくなったからといって、話をしないからといって友人でなくなってしまうわけではないが、ある時点で「僕」と上田を固く結びつける「ロンジンの懐中時計」の力は失われてしまったのだろう。
「僕」と上田の間ではロンジンの懐中時計であったが、我々も皆友人との間に何かそういったものを持っていないだろうか。人と人とを繋げる、人と人の間にしか存在しない、目に見えないがそこにあるもの。目に見えないが故に記憶に残る物、人、話題。人は死んでも記憶の中に生き続ける、命が完全に死に絶えるのはその命が忘れ去られた時、とはよく聞くが、本作はまさしくこれを表現していると思う。もしあなたが、そして私がより「長生き」したいのなら、より多くの人と交流し、より多くの人と友となり、より多くの人の記憶に残るように行動すぺきなのだろう。
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