小川洋子「ひよこトラック」書評(評者:杉本優花、伊藤舞香、猪原琉矢、光成望未)
再び更新が滞っており失礼しました。5月19日の3回生ゼミでは小川洋子「ひよこトラック」を読みました。
小川洋子「ひよこトラック」(『群像短篇名作選 2000〜2014』収録)
評者:杉本優花
沈黙は、時にどんな言葉よりも雄弁に心の内を語る。仕草、表情、纏う空気感には、言葉に代え難いほどの静かな感情があり、私たちはその沈黙を通して、人の真意を知ることがある。言葉にすることができない感情を、沈黙で分かち合うのである。
小川洋子「ひよこトラック」は、そんな沈黙で繋がった男と少女の関係を繊細に描いた物語だ。優しさを湛えた日常の描写は、素朴ながらも読者を惹きつけてやまず、静かに私たちの心に迫る。そして本を閉じた時、沈黙が生んだものこそが、かけがえのないものだと気づかされるのだ。
本作はホテルのドアマンである男が、新しい下宿先に入居する場面から始まる。その古ぼけた一軒家には、七十の未亡人と六つになる孫娘が暮らしており、少女は母親を亡くしたことがきっかけで口がきけなくなっていた。男は少女の扱い方に悩む。恭しく接するが打っても響かず、戸惑いを覚えていたところ、ある日、色とりどりのひよこを荷台に乗せたトラックが通りかかった。その時初めて、男と少女の間には言葉でもなく身振りでもない心の交流が生まれる。
翌日、夜勤明けの男を待っていた少女は、大事そうに持った蝉の抜け殻を男に手渡した。男は困惑しつつもそれを窓辺に飾り、少女はそれから度々男の元へ抜け殻を運んでくるようになる。ヤゴの抜け殻、カタツムリの殻、蓑虫の簔、蟹の甲羅にシマヘビの抜け殻。窓辺のコレクションが増えるに連れて、男と少女のささやかな関係は深まっていく。少女と抜け殻を見つめる間、男は少女と同じように沈黙を守り、二人の間に言葉は必要ないこと、抜け殻が精巧なものであること、少女もまたその抜け殻のように小さく、尊いものであることを知る。
そして三度目にひよこを乗せたトラックが通りかかった時、少女は横転したトラックに放り出されたひよこたちを抱き留めながら、初めて言葉を発する。その声はひよこたちを勇気づけると共に、男の心を優しく包むのだった。
男は少女と過ごした時間の中で、一種の救いを見いだしたのではないだろうかと考える。男はドアマンとして毎日客に頭を下げ、心を動かされることもなく、ただなんとなくくたびれた日々をこなす男であった。生きることに積極的になれず、どこか孤独で諦めたような自分を、男は夜の世界に浸ることで守り過ごしてきた。そうした日常は、時が流れて行くにつれて男の心を確実にすり減らし、男の中に虚無感を植え付けてしまった。トラックの荷台に囲われ、売られていくことをどうすることもできないひよこたちと、日常という枠から逃れられない自身を重ねて、無常さを感じてしまうほどに。
しかし少女は違った。少女の見つめるひよこたちはどこへでも行けた。少女はかつての男がそうであったように、未熟ゆえの無垢さを持っていたからである。男が大人になっていく過程で失ってしまったもの、捨てなければならなかったものを、少女は小さな体に抱えていた。まるでそれらをなくしてしまう前の男の抜け殻のように。少女はその抜け殻が大切なものであると知っていたのだろう。少女にとって見捨てられた抜け殻は、自分を守ってくれる沈黙が詰まっており、大切に救い出すものでもあった。
そのような少女との日々は、男を夜の世界から朝日があたる世界へと押し出した。男は少女と抜け殻を見るように、日常を少しだけ丁寧に見られるようになり、以前は気に留めることのなかった客の様子にも気が付くようになった。決して全てが好転したわけではなかったが、それはドアマンとしての自分と本来の自分、夜の世界と朝日があたる世界、少女と男の壁の境界線をぼかしていくような行為だったのではないだろうか。
だからこそ少女の声を聴いた時、男はその声に希望を見た。少女がどこか男にも似たひよこたちを救ったことで、男は自分も救われたような気がした。本当の意味で、ひよこたちはどこへでも行ける存在になったのである。そして男にとっては取り戻すことが叶わないはずの失われてしまったもの──少女にとっては声を少女が取り戻し、ひよこたちに「何の心配もいらないの」と語りかけたことが、何よりも男の救いになったのだ。
私たち人は常に何かしらの役割を演じ、他者にとって心地の良い人間であろうとする。かつて、社会学者アーヴィング・ゴフマンはその相互作用でコミュニケーションが成り立っているというドラマツルギーの理論を提唱したが、男はむしろ役割という殻を剥がしていくことで、少女の心に触れたように思う。本当に大切なものは、初めから殻の中にあったのだ。小川洋子「ひよこトラック」は、そんな幸せの本質を穏やかな日常に散りばめた物語であった。
評者:伊藤舞香
この物語は定年間近のドアマンの男と母親の死をきっかけに言葉を発さなくなった少女が中心となって書かれている。私がこの物語を読んで思い浮かんだのは「期待」と「推察」という言葉だ。男が夜勤明けに帰宅すると少女が階段に座っていることに「どうしてこんなところに腰かけているのか?」「自分を待っていたのではないだろうか」「何の用がある?」と様々な推察をしている。そして少女からセミの抜け殻を差し出された時も時候の挨拶なのか、あるいは自慢なのか驚かせようとしているのかと考えている。さらに少女がセミを自分に差し出した理由が自分を驚かせようというものならばもうその期待に応えることは不可能だろうと考えている。p123の15行目「だから、男には、このセミの抜け殻が本当にプレゼントなのかどうか、正しく判断できなかった。自分がプレゼントだと思い込んでいるだけで、少女の方にはちっともそのつもりがないとしたら大変なので、できるだけ抜け殻のことは考えないようにしているのだが」とありこの文からも男が少女の行動の意図を正しく認識しようとしていることがわかる。p125の9行目「間違いなくこれは、プレゼントに値する驚異だ」と確信を深めているところからも男が少女の行動の意図を正しく読み取れているのか考えていることがわかる。セミの次にヤゴの抜け殻、カタツムリの抜け殻、ミノムシの蓑、蟹の甲羅と少女と男は抜け殻を収集しており次に少女が卵を選んだ時もp128の1行目に「どういうつもりなのか意図がつかめなかった。」とあり、この文からも男が少女の行動を推察しようとしていると感じられた。さらに少女が裁縫箱から針を取り出し、それで卵をつつく真似をしている所から卵を抜け殻にしたいということなのだと読み取っている。また、あまり好きではない生卵を彼女の期待を裏切らないように平気なふりをして飲み込み続けるところも私がこの物語を読んで期待という言葉を思い浮かんだ場面だ。
この物語には男が少女の行動一つ一つに自問自答し、そこから読み取った彼女の行動の意図に気づき期待を裏切らないように彼女に接している描写が多くあるが男が少女に対して期待している描写もある。p120の18行目の「あれは、ひよこ?ひよこよね。ああ、そうだ。ひよこだ。やっぱりそうなのね。ひよこだったんだわ。」とp126の16行目の「ひよこよね。ああ、そうだ、ひよこだ。」のところは男の少女はきっとこう思っている、ひよこという名だけは通じあっているという期待だと感じた。少女は一言も言葉を発しておらず目があっただけなのだからこの部分は男が勝手に少女との会話を想像しているのである。この想像には男の少女に対する期待があると感じた。また、ホテルに少女と同じ歳くらいの子連れの客が来ると少女と比べている場面でも男の少女に対する期待が読み取れる。p130の3行目「少女ならきっと、背筋をのばし、何十分でも、もちろん静かに、ソファーに座っていられるはずだ」という文が男の少女に対する期待を感じられる一文である。
私はこの物語は読者にも推測と期待をさせていると思った。この物語に言葉を全く発さない少女が出てきたとき、この少女は最後は言葉を発するようになるのだろうなと思い、その引き金になるのは、言葉を発さなくなった原因の母の死が関係する出来事か少女が興味を示し題名にもなっているひよこトラックだろうと思いながらこの本を読んだ。全く言葉を発さない少女が話の最後には言葉を発するというのは物語の定番できっとこの少女も最後は言葉を発するだろうと読者に推察させ、発するようになるとしたら何がきっかけになるのか期待させていると感じられた。この物語は様々な場面で推察と期待が描写されているだけでなく、読者に推察と期待をさせながら読ませるものだったと感じた。
評者:猪原琉矢
私たちは普段どのような手段でコミュニケーションをとっているだろうか。たいていは言葉や文字、身振り手振りが一般的であろう。その中でも言葉は自分や相手の言いたいことを伝えるのに最も簡単で最適な手段だと思われる。ただ、もしコミュニケーションをとろうとしている相手が全く喋らなかったらどのように心を通わせれば良いだろうか。この作品では、そんな言葉を話さない少女と六十近いホテルドアマンの男が、あることをきっかけに心を通わせていく。そんな物語になっている。
主人公であるホテルドアマンの男は、元々住んでいたアパートの大家とのちょっとした諍いをきっかけに、新しい下宿先に住むことになった。七十の未亡人と孫娘が二人で暮らす一軒家の二階だった。引越しの翌日、男が窓辺に干しておいたブリーフが風に飛ばされ、少女が拾って届けてくれたのだが、いくら声をかけようとも俯きもじもじしているだけでブリーフを返そうとする気配さえなかった。子供という存在そのものが謎な彼にとって少女が何をしたいのかさっぱり分からなかった。その後、その少女が父親の家出と母親の死をきっかけに誰対してもウンともスンとも口を聞かなくなったことを男は知る。そんな少女の背景を知った男はあれこれ考えるうちにその場を立ち去るタイミングを失い少女とまた二人になってしまう。その二人の間をトラックがとおりすぎた。色とりどりのひよこを乗せたトラックだった。このトラックが通り過ぎた瞬間に二人の間に一瞬ひよこという名の虹が架かった。このことをきっかけに男と少女は徐々に距離が縮まり言葉を交わさない、しかし交わさなくてもいい二人だけの空間ができていく。ある日、ひよこトラックについての知識を蓄えた少女の後を追いかけて行くと、トラックが遠くのほうに見えた。いつものように二人の前を通り過ぎたトラックだったが、そのまま農道を外れ、転倒してしまう。運転手を助け、ふと視線をあげると、そこはひよこ達でいっぱいだった。興奮し混乱しているひよこの中に少女はいた。少女はひよこ達を誘導し元気づけるために、初めて喋ったのだ。男は少女が初めて聞かせてくれた声にかけがえのないものを感じ、何度も耳によみがえらせていた。その声はひよこ達のさえずりにかき消されることなく、いつまでも男の心に響いていた。
私はこの作品を読んで、男と少女の言葉を交わさないながらも、交わさなくていいという空間の描写、情景がとても好ましいと思った。少女から貰うプレゼントを介して男もあえて喋らずに平等という立ち位置に立つことで、二人で同じものをみておなじことをかんがえる。そこに私はロマンティックな部分を感じた。彼女と平等でいようと考えられたのも、父と母をなくした少女の「孤独」を、四十年近くホテルドアマンとして一人で生き続けてきた自分に重ね合わせ、同じ孤独という境遇だとわかったからこそできたのではないかとも思った。また、少女の持ってくる抜け殻等は本来ならば要らないものであり、ひよこに関してもぞんざいに扱われるものと男は考えていた。しかし、少女が一生懸命見つけ出し、助け出しているをみて、男は命の尊さに気付かされた。それが少女から貰ったプレゼントと考えるとこれもまたとてもロマンチックに感じられるのではないだろうか。
評者:光成望未
この話は変わり映えのない日々を送っていた主人公の男が、新たな下宿先の孫娘と偶然カラーひよこを乗せた軽トラックに遭遇し、そこから少女と様々な生き物の抜け殻を通して交流を重ねていく物語だ。
はじめは表情の描写がほとんどなかった少女だったが、男と関わっていくうちに「満足そうな表情(124p10行目)」を浮かべたり、「顔を輝かせ(126p12行目)」たりするようになる。それは男が6歳の少女に対しても礼儀を欠かさない態度をとったり、少女を尊重し大事に思っているような様子であるのを少女が機敏に感じ取った結果なのではないか。ホテルのドアマンとして長い間勤めている男は日常生活でも礼儀正しい態度を心がけている。ただ、外に出さないだけで心の内では大家である未亡人のことを「愛想のないがさつな女(115p7行目)」などと評している。それに加え詳細は不明だが、前の下宿先を追い出されたのは「大家とのちょっとした諍い(115p3行目)」が原因らしく、穏やかそうな人間に感じたのだがそれだけではない人間らしい部分もあるように感じた。男が少女を尊重していると感じた部分だが、一言も話さない少女に対して話させようとアレコレ画策しない点や話さないことを受け入れているような態度である点、抜け殻のコレクションを少女と眺める場面で男がコレクションをただ見るのではなく一緒に観察している点が挙げられる。また、男が少女に話しかけることも少なく、「お互い喋らないでいる方が平等だ(125p12行目)」と感じているところから、男は少女と同じ目線・土俵で接しようとしている。続いて男が少女を大事に思っていると感じた部分だが、抜け殻のコレクションを窓辺に並べている点だ。男にとって窓辺とは「人に頭ばかり下げてきた一日に区切りをつける(117p12行目)」ための場所で、これは男にとって一日を終える重要な儀式になっている。その大事な場所のそばにコレクションを置き、さらに窓辺で外を眺めている間にも抜け殻を掌に載せ思考を働かせている。窓辺という自分のテリトリーに自分以外のもの、よそから来たものを置くという行動は抜け殻を、ひいては少女を大切なものとしているように感じる。
また、少女自身も男を大事に思っているように感じた。130p中頃に書いてあることは男の想像だが、少女の実際とおおよそ外れていないと思う。少女はたった一つの抜け殻を探すために果樹園を、用水路の水辺を駆けずり回る。そうまでして手に入れた戦利品をほかでもない男のもとに置くのだ。自分で管理したり、少女の祖母である未亡人に渡したりするという手があるにもかかわらずだ。ただ、未亡人が候補から外れるのはうなずける。というのも、未亡人が男に少女の身の上を話していた際、淀みなく淡々とした話しぶりで、少女への強い思いを感じられなかった。確かに未亡人は思いつく限りの手を尽くしたが結果は出なかった。半ば諦めている風でも仕方ないかもしれない。けれども少女の身の上を話し始める時、「『あの子が挨拶一つしなくても、私の躾がなってないからだなんて、思わないでおくれよ』(118p16行目)」と自分の体面を気にするような言い方をしている。自分が悪いと思われる可能性が少女のせいで生まれてしまいそれに不満を持っているように感じる。少女に対して明確にそういうマイナスな態度をとりはしないだろうが、そういったものは普段の態度にこぼれるものであり、少女はそれをこれまた機敏に感じ取ったかもしれない。また、男と少女が何度も抜け殻交流を重ねた後でも「『どこにいるんだい』(126p6行目)」と発言している。少女を気にかけているならば男と交流していることはたやすく知れることだろう。それでもわかっていない風なのは無関心までいかないが、そこまで気を配っていないということなのではないか。しかし未亡人も高齢で仕事もしているのでどこまで子育てについて求めるのかといわれると苦しいところである。男が選ばれた理由だが、男は少女が言葉を発さなくてもアイコンタクトで少女の考えを汲み取って接している。加えて前述したが、たった6歳の少女に対しても礼儀に気を付けている描写もある。少女の周囲にいる大人は、おそらく未亡人と男だけなのだろう。比較してしまうのは必然で、男のほうが少女を慮っているのは明らかだ。少女がいくら機敏に感情を感じ取れると仮定しても少女は6歳の少女で、逆に未亡人のことを慮るというのは難しいだろう。
物語が進むにつれ、男が少女の「親戚のおじさん化」しているようで面白い。卵の抜け殻を作るために張り切りいいところを見せようとしたり、ホテルに来た子供と少女を比較して「少女の方がずっと可愛らしい(130p5行目)」と思ったりしている。父親とまではいかないが親戚のおじさんくらいの思いは芽生えている気がする。「寄り添うように停まっている自転車と三輪車(118p10行目)」という部分はもしかしたら今後の二人であり、寄り添うくらい仲が深まるぞという伏線?なのかもしれない。