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イツホク・バシェヴィス・ジンゲル「カフェテリア」書評

今週2本目の書評は西野乃花さんです。

イツホク・バシェヴィス・ジンゲル(アイザック・B・シンガー)「カフェテリア」書評 (西成彦編『世界イディッシュ短篇選』収録)

評者:西 野乃花

 例えば、幸せとは到底思えないような生き方を強制されていた人間において、死を望むことは慰みであるのか、死を選べることは救いであるのか。同意はできずとも理解はできる。現状から抜け出したいがための手段の一つなのだろう。本書の著者であるアイザック・B・シンガーの生きた時代は二十世紀、世界大戦の記憶が影を落としている。これは圧政の恐怖に怯え、死の身近さに震え、そんなどこか余裕のない客たちの集うカフェテリアの日常で出会った、一人の女性の運のない人生がつづられている一編である。
 カフェテリアを訪れる顔なじみはアイザックを含めほとんどが男性で、五十年代ほどに登場したエステルはいわゆる紅一点、そしてアイザックのファンであると話した。エステルは亭主を戦争で亡くし、父親と二人暮らしをしていて、その父親から結婚話を持ち掛けられることに不満を隠さずにいた。エステルにはもう恋人を作る気はなく、それどころか男と女は分かり合えないのだという。アイザックは多忙であるため、カフェテリアの常連だとしても常在しているわけではないし、エステルにも仕事がある。二人がカフェテリアで会うのは互いに偶然で、そして長く間が空く。また会ったとき、エステルは風邪をこじらせ、自分にとって死は慰みであると話し、次に会ったとき、父親を亡くし、仕事を変え、病気であることを盾に戦後の賠償金制度に則り金を手に入れようとするお節介な弁護士に付きまとわれ眠れていないと話し、そして次に会うときは、エステルから電話を受ける。アイザックの家にて行われた会合で彼女は、自分はヒトラーを目撃したという。ここで少し時をさかのぼり、エステルと出会ったそのあと、例のカフェテリアは一度焼失している。原因は不明だが、季節を二つ跨いだころには新装開店といったおもむきでカフェテリアは存在していた。エステルがヒトラーを見たと話すのは、カフェテリアが火事で焼失する前日の夜の出来事。カフェテリアでヒトラー一派が怪しげな集会を開いていたのを目撃してしまったのだ。だがヒトラーはすでに故人であり、エステルが見たものはアイザックにとって信じられるような話ではなかった。果たしてエステルが見たものは何だったのだろうか。

 わたしはカフェテリアでヒトラーを見たというエステルの話を考え始めた。この話をエステルから聞いたときは、ひどくナンセンスな話に思えたが、いまではそれは物凄いことだったのではないかと思い始めた。(249−250頁)

 常人には見えないようなものを認知してしまったとして、それらに与えられた恐怖を誰かと共有するにはその誰かも同じ感性でいなければ分かり合えない。だからこそエステルは周囲の人間を頭がおかしいと称していたし、アイザックもエステルの話を信じることはできなかった。現実で精神的に追い詰められていたり、締め切りなどの時間に追われていたりすると、夢の中に恐怖が映ったり会いたくないような人間が登場することもあるという。エステルの場合はそれに近く、最後に死人のような(もしくは本当に死人か)男に付き添って笑顔であったのも、彼女にとっての救いの概念が死にあったからではないだろうか。故人をみたというのなら、比較的故人に近い存在を確かめることで自分はおかしくなっていないのだと確認していた。エステルは自分が嫌悪した人間らと同じにはなりたくなかったのだろう。
 ブロードウェイにおける死者とは何か。新聞に訃報が掲載された人間か、戸籍のない人間か、誰にも関心が寄せられないような人間か。私は、人が生きていくには少なくとも自分を知っている人間が必要だと思っていて、その点についてだけ言えば、アイザックはエステルの訃報を聞かない限り彼女は生きていると思うことができる。知らぬが仏、とはよく言ったもので、もしかしたらアイザックが見たエステルは過去の彼女が顕在化されたもので、そのときすでに彼女は死んでいたのかもしれない。しかし所詮は記憶であるので、仕事に追われ、アイザックの記憶が薄れたとき、エステルはとうとう死んでしまうのだろうなと思った。

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