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三浦しをん「冬の一等星」書評(1)

今週の書評です。小家康寛さんと平山大晟さんに三浦しをん「冬の一等星」の書評をしていただきます。まずは小家さんです。

三浦しをん「冬の一等星」(池内紀ほか編『日本文学100年の名作 第10巻 2004-2013 バタフライ和文タイプ事務所』2015年)

評者:小家 康寛

生きるためには

 この小説は、主人公である映子という女性が車の後部座席で寝ている最中に見る夢の話から始まる。しかし彼女自身夢の内容自体にはさほど関心はないようで、むしろ「車の後部座席で寝る」という、一見わけがわからない状況そのものの方が重要であるようだ。というのも、八歳の頃に「誘拐」としか言い表すことができないものの、とても懐かしい記憶を思い出すことが出来るからである。もっとも誘拐と言っても不審者に声をかけられてついて行ったり、無理やりさらわれたりしたわけではない。母親には内緒で車の後部座席で寝ていたところ、近所のスーパーに買い物に向かった際、たまたま寝ていた車が盗難に遭ったためそのまま「誘拐」されたわけである。
 誘拐犯となった文蔵という男は、電車や飛行機などといった公共交通機関を使えず、車の盗難をしてまで大阪に向かおうとする。それだけで彼がまっとうな人間ではないと明らかにわかるが、彼は映子に対して暴力を振るうことなどはせず、むしろ話をちゃんと聞いてくれたり、いろいろ教えたりなど優しく振舞っていた。その後映子と文蔵は何か大きな出来事に巻き込まれるわけでもなく、文蔵の目的どおり大阪に到着し、ファミレスで別れ、映子は警察に保護され、無事家族のもとに帰る。
 作中で、映子は「変わっている」と言われる。同世代の子どもたちと比べて警戒心がなく、ボーッとしているし、誘拐されても帰りたいと泣きわめいたり、逃げたりするわけでもなく、文蔵のことを完全に信じきって行動をともにすることを考えれば確かに変わっているように思える。
 しかし、映子は本当に変わっている子だったのだろうか。誘拐された時の彼女の行動だけを見れば、それは誘拐された人間の行動ではないように思える。だが彼女は文蔵のことを心から信じており、それ故に文蔵について行くことを決めた。自分が信頼できる人だと判断した人間についていくのはおかしなことだろうか?八歳児のその判断は間違っていただろうか?
 これは結果論ではあるが、文蔵を信じた映子の判断は間違いではなかったといえるであろう。文蔵は彼女をどこかにほったらかしにするわけでもなく、ちゃんと家族のもとに返すため最後にはファミレスで過ごさせた。ではなぜ映子は文蔵のことを信じることができたのだろうか。たまたま車で寝ていただけの八歳の映子と、明らかにまっとうでない目的で大阪へ向かう文蔵の間に、何があったのだろうか。
 映子は母親から「変わっている」と言われているし、学校の通信簿にも「(周りと比べて)授業中によくぼんやりしています」と書かれている。ただこれは映子が変なのではなく、単に映子の個性、性格なだけではないだろうか。それを「変わっている」と断じる母親のいる家に帰りたくないと思ったり、ちゃんと自分の話を聞いてくれたうえで「あんたはべつに、変わってないよ」と言った文蔵についていったりするのは納得できない話ではないと私は思う。誘拐としか表現できない状況でありながら、誘拐犯である文蔵を信じ、行動をともにできたのは映子の性格ゆえであろう。
 逆に、そんな映子を信じた文蔵もまた「変わっている」と文蔵自身も言う。お互い少しズレた感性の持ち主であったからこそ生じた関係は絶妙に噛み合い、広がりを見せた。
 誘拐としか表現できない状況や、それに対する映子の反応、文蔵とのやり取りなど、どこを取っても「正常」とは言いがたい。しかし、文蔵は映子と赤の他人であったからこそ、大阪へ向かう長い時間の中で、彼女への理解を示せたのだと思う。

 人は一人では生きられない。物理的な話として、社会の中で人間一人一人それぞれが異なる役割を担うことで社会が成立し、その社会の中で人々が生きている。しかし人間は物理的に環境が整っているだけではやはり「生きる」ことは難しい。
 人は自分自身の理解者、少なくとも自分の話を聞いてくれるような存在がいないと、精神的に不安定になることがあるだろう。ただ、この人物は人によって異なるし、自分にとって身近な人とも限らない。映子にとってはたまたまそれが文蔵であったのだと私は考える。
 通信簿には「ボーッとしている」と書かれ、母親にも「変わっている」と言われた映子。時には重々しくうなずくほどに彼女の話をちゃんと聞き、彼女のことを理解し、それでいて彼女のことを最後まで守り、どこか昏い場所へと消えた文蔵。
 この小説は、映子が文蔵と交わした会話の中で得たもの、また彼自身を冬の夜空に輝く明るい一等星に例えて、彼女自身の行く先を照らし、守ってくれている、という締めくくりになっている。かつて自分自身を理解してくれた文蔵が心の支えとなっているからだりだが、誰にも捕まらない場所へと消えた文蔵が、その場所へたどり着く前に最後に出会い、まともに会話をすることになった映子もまた、文蔵にとって忘れることのできない、心の支えとなる一等星になったのではないだろうか。

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