津島佑子「ジャッカ・ドフニ—夏の家」書評(2) (評者:野崎実生)
「ジャッカ・ドフニー夏の家」書評の二人目は野崎実生さんです。
「ジャッカ・ドフニ―夏の家」書評(『現代小説クロニクル 1985~1989』収録)
評者:野崎実生
大きなショックを受けた者は孤独にならなければ苦しみを乗り越えることはできないのだろうか。
主人公は子育てが落ち着いてきたタイミングで一人で暮らす老いた母のことが気になりだす。また、息子がいろいろな生き物を飼うために庭を欲しがっていることや、娘が中学生になるのでひとまわり大きな部屋を望んでいたといった条件が重なり母の古い家を建て直すことにした。しかしその計画は息子の死によって白紙になる。それから大切な息子を亡くした主人公は、様々な設計がされた家での生活を語る。家の設計だけではなく、そこで暮らす子どもたちの様子や訪れる人や出来事も事細かに主人公によって語られる。しかしその話は単なる空想の物語に過ぎなかった。「階段踊り場の壁、二メートルほどの高さのところにぽっかりトイレの戸口が開いている」といったあまりに現実離れした家の設計や、「この移転の計画が中断されてからというもの、あまりに多くの家を夢に見過ぎてしまい体の中で収拾がつかなくなってしまっている。」という一文からそれらが現実ではないことがわかる。
この空想にどんな意味があるのだろうか。現実では実現不可能な息子との幸せな暮らしを空想の家をつくることで心の安寧を求めたのだろう。息子が亡くなるより前に家族で訪れた博物館“ジャッカドフニ”が作中に出てくる。ジャッカドフニという言葉の意味は大切なものをしまっておく場所といわれている。主人公は現実で失ってしまった大切な息子を頭の中の家という場所にしまっておいた。そうすることで心を落ち着かせているのだろう。しかしそれはとうとう頭の中に収まらず、現実にも及びだす。
ある時、母が亡くなり葬式の準備が進められようとしていた。しかし母の死を受け入れられない主人公は母が生きているように振る舞い、周りから気の毒そうに見られたり哀れまれることになる。また、物語の終盤では住んでいる家のポストに大量の糸ミミズが投函される。糸ミミズは息子が飼っていたイモリの餌である。糸ミミズが投函されたことで次はヤモリ、その次は、と息子の帰りに希望を抱き期待に胸膨らませる様子で物語は終わる。私はここに現実と空想の境目がわからなくなっていくようで強い不安と世の中から置いていかれる不安を覚えた。
身に起きたショックな出来事から心を守るために空想することはひとつの手段である。しかし、それがあまりに行き過ぎると現実まで侵食し、母のお葬式の時のように周りからかわいそうな人という目で見られることになる。行き過ぎた空想は新たな苦しみや苛立ちを生み心の落ち着きを取り戻すことはできない。だが物語の終盤の主人公は救われているようにもみえる。他者から見れば迷惑ないたずらにみえるものでも、主人公にとっては息子の帰りが暗示されたようで喜びの表情をこらえていた。大きなショックを抱えた人が空想という手段で苦しみを乗り越えると同時に、世間の感覚から大きく離れて孤独になる様子を目の当たりにしたようで胸が苦しくなる作品であった。