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"生物学"仲間とのフォッサマグナ

生物学科とか、生命化学科とか、大学においてそういう生物系の学科に入る人間というのは、間違いなく「生物」「生物学」のどちらかに興味のある人間である。

ただし、「生物」が好きな人間と、「生物学」が好きな人間とは、同じ生物系だからってそう簡単には馬が合わないらしい。なんか、話が合わないのだ。

なぜかというと、「生物」と「生物学」の間には深すぎる溝があるからだ。マリアナ海溝とまではいかずとも、フォッサマグナ位の深さはあると思う。まあ、フォッサマグナ行ったことないけど。いつか行ってみたいな。


さて、
「生物」と「生物学」
何が違うというのか?

生物の世界が好きになるきっかけは、人によって様々である。

道に生えてる野草の花が綺麗だとか、テントウムシに興味津々だったとか、動物園に行くのが好きだとか、生き物図鑑を見るのが楽しいとか、まあ、色々あると思う。
こうした"入り方"が「生物」である、とする。

そしてまた、違った類のきっかけがある。
遺伝子組み換えに興味を持ったとか、新しい品種を作る交配に驚いたとか、iPS細胞で組織が作られることに感動したとか、科学技術に関わる「生物学」から入る入り方である。


こうして、違った入り方をした二者。

勿論これは、どちらの要素も持っている人がほとんどだ。例えば私がそうだが、小さい頃は身近な生き物に興味を持っていて、中学生の頃にEテレのサイエンスZEROで生物学が主体となる科学技術である「ゲノム編集」を知り、そちらにのめり込んでいく。そうして私は生物学科に進んだ。

最初にどちらの入り方だったか、ではない。どちらの入り方もしたことがあっていい。というか、義務教育の中で、どちらの入口にも案内されているはずである。問題なのは、生物の世界に魅入られた者が、どちらにのめり込んだかである。

つまり、どちらにのめり込んだかによって、同じ生物系の人間であっても、持っている知識が変わってくる。どんなことに興味があるか変わってくる。

となると、何が起こるのか?

時として、この周辺知識が違うせいで、同じ生物系の人間同士でも、なんだか会話が弾まない。

そりゃそうだ、と思ってほしい。生物が好きな人間と生物学が好きな人間が見ている世界は違う。
その両者とは、何かしら生物を目の前にして、その名前や"特有の"性質が気になる人間と、その生物が他の生物と共通してもつ仕組み、或いはその中に光る固有性が気になる人間なのだから。


ex)キノコを見て何を思うか?


生物が好きな人間は、きっと種を特定する(同定)。そして、そのキノコがほかのキノコとどう違うのか調べる。胞子の出し方が面白いのだ、形が興味深いのだ、と、その成果を嬉々として教えてくれる。私の出会う生物好きは、みんなそうだ。

生物学が特に好きな人間である私は、なぜ菌類は細胞壁を持ち、その成分が植物のようなセルロースではなくキチンなのかを知るのが、面白くて仕方ない。
菌類は消化液を体外に放出して"獲物"を消化する。そうして低分子の栄養に分解されたら、それを身体の細胞で直接吸収する。分子をたくさん取り込んで浸透圧が上がると、細胞の吸水力が高まる。そのままでは細胞が破裂してしまうので、細胞壁でそれを防いでいる。
キチンという物質は可塑性に富む。つまり、曲げたら曲がったままキープされる性質をもつので、菌類は菌糸を自在に伸ばしやすい。
というのが、自然淘汰の有力仮説?なのか、キャンベル生物学に書いてあった。


だからこそ、お願い。


ここまでまともに読んでくれていれば分かってもらえたかと思う。同じ生物系でも、生き物の種に興味がある人間と、そうでない人間がいることを。

「生物系!?じゃあじゃあ、この葉っぱはなんて言う植物??今飛んだチョウは!?えーわかんないの??ほんとに生物学科?笑
「なんで知らねーんだよーちゃんと勉強してんのか?笑(正論)」

こうはっきり言われたら、きっと私は泣いてしまう。
生物種がわかるだけが生物学じゃない。私だって、1人生物学科志望として、高校生物に一生懸命取り組んできた。一昨年だかノーベル賞を受賞したクリスパーキャスナインの技術、あれを中学生の時に知って新書を読み漁って、感動した私だって、きっと生物学の世界を見ていた。

生物種がわからないから生物学に達者じゃない。
そんな風に思わないで欲しい。

そしてそう露骨に、生き物の名前の知識を試さないでほしい。


私は、生き物がそこで生きている、
ただそれが幸せなのだ。
名前なんかどうでもいいのだ。

でもまあ、生き物の名前がわかることはきっと自分にとって必要だから、勉強中の身なのだけどね。





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