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キャラクタービジネス、そして新宗教は欧米的か問題
2024年345日目。
私生活の変動でこのところ何やらやることが多いですが、前回行けなかった東京科学大・柳瀬博一さんの「メディアの話をパワポも映像も使わずにやる夕べ」、年内最後の回(その5)が開催されるとのことで、スケジュールを無理矢理調整して行ってきました。
今回のテーマは「キャラクタービジネス」。
大意については、ご本人がnoteに書かれています。
余談ですが、タイムリーなことに、その日本におけるアニミズムの王の、その後継者?が研究として選んだのが正に「虫」というのは何か象徴的。
キャラクタービジネスの日米比較
noteに書かれていないところでは、ビジネスとしての日米の比較がわかりやすかったです。
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アメリカのキャラクタービジネスは一神教的であるのに対し日本はアニミズムに依拠しているとの指摘
また、玩具メーカーがメディアでマーチャンダイジングを展開することがアメリカほど厳しくないため、年代別マーケティングが行いやすいことも挙げられていました。
例えば、アンパンマン(顔の認識)→戦隊・プリキュア(自我の確立と仲間)→ポケモン(冒険と狩猟)のように、ただ特定の作品を消費し続けるのではなく、作品を享受する子どもの成長に合わせたキャラクターが準備され、「卒業」できるようになっていること。あるいは、それぞれのステージの作品ではキャラが大量に必要であり、それを①が支えていること。さらにそこから(ドラえもんのような)全世代にウケる作品も立ち現れてくること。
この結果として、世界のキャラクタービジネスの金額ベース上位25位の内、13が日本のものになっている。インドやアフリカなど、まだ日本のキャラクタービジネスがあまり進出していない地域もあり、確かにこの分野はまだ成長の余地がありそうです。
その他、話の中で取り上げられた日本の作品が、もはやかなりの部分で海外、特に中国のマーケットに支えられていることも今更ながら感じました。(例えば、「THE FIRST SLAM DUNK」は姚明の存在をきっかけにバスケ人気が高い中国のマーケットも念頭にしている)
日本の新興宗教の建築物
さて、それらの議論よりも個人的に興味を惹かれたのは、今回のイベントの直前に柳瀬さんがFacebookへ投稿したことについての質問に対する解説。
https://www.facebook.com/share/p/js2jZQF1Bu5UfHN3/?mibextid=WC7FNe
京都鎌倉に人が集まるのは宗教施設があるから。その施設のおまけに緑がある。宗教施設のない緑に人は集まらない。新興宗教は脳内宗教なので不動産開発には熱心だけど緑がない。実は一神教的である。
「一神教的」「緑がない」…あれっと思って思い出したのがこの本。
確かに、特に天理教の建築物について読んだ際、ひとつの中心から放射状に広がっていくように建物が拡張していくことに対して「拡張が止まらないように見えるけど、どこかで歯止めが係るのろうか?この整備は永遠に止まらない運動なのではないか?」という何某かの怖さを感じたことを憶えていました。(※)
その拡張を指向する性質ついて、上記の「脳内宗教」「一神教的」という指摘と妙に合致しているかもしれない…ということで、今一度読み返そうと思って本棚を探したのですが見つからず、代わりに、いつのまにか増補新版なるバージョンが出ていたことを発見!(正確には、一度改訂した後、同じ著者の『近代の神々と建築』と合体した本とのことです。)
ということで、図書館より調達して読み返してみました。(図書館ってすばらしい。)
改めて気づいたのは「欧米の建築は自然との拮抗だが日本の建築は自然との親和性がある」との考え方がある一方、特に戦前においては「神道→日本で育まれたもの」/「仏教→インドから中国を経由して伝播した(欧米の文明と同じく)外来のもの」との対置から、両者の区別はかなり明確に意識されており、それが今に至っても影響があること。神社は(関東大震災で防火への要望が高まるまでは)木材以外で造られるべきではないとの考えが広く共有され、また、その空間の神聖さゆえにその空間には厳かさに加えて緑が求められるものの公共空間化されることは避けられ、一方、寺院はインド・中国から伝播した「外来」のものとの考えからその建築において材料は問われることはありませんでした。(某神社の境内でお盆にイベントを行う理由として、神社を身近に感じて欲しいから、ということを聞いたことがある身としては、公共空間としての神社が否定されていたことはちょっと意外な気もしました。)
背景としては、御一新(明治維新)により将軍(仏教も巻き込んだ統治システムの構築したことから将軍=仏教寄りとのイメージが付与されていた)から天皇への権威の移行を進めなければならない必要性からこのような考えに至ったものなのでしょう。しかし、8世紀の八幡神あたりから1000年以上続いた神仏習合と、それにまつわる信仰を、なかったことにはできるうはずがないと思います。
まとめると、まず、神社/寺社はそれぞれどうあるべきか?というあいまいさを排除する思考こそ、欧米的な発想ではないか。そして、そのような議論が行われていた際に発展していった新宗教の多くは、日本の神社・寺院の表層を持ちつつも、その世界観の内実は欧米的にならざるをえないのかもしれません。あるいは、個人的な実感として、一部の新宗教の施設は周囲に自然らしい自然は希薄である一方で建物が主役になるよう造られていて、(神社・寺院と比べて)その信者以外が足を踏み込むことが極めて難しいように見えまずが…だとしても、欧米vs日本のような一般化ということまで果たして語ることができるのだろうか?という疑問は残りました。
何はともあれ、書かれたことと実際は異なる場合は往々にしてあります。宗教を含め何某かの信仰を持ち、さらにその共同体に属することは、自身の精神の自由を制限するものだと思うので、新宗教の信者になるつもりは毛頭ありませんが…実際に見てみないとわからないことはあるはず。公開されて行けるところがあれば、可能な限り行ってみたいと考えています。
(※)なお、読んだ当時は「華厳経的な?イメージ(=盧舎那仏から四方八方に放たれた光が世界のあらゆるものを突き刺す、仏からの光に突き刺されるためにあらゆるものには仏性というものが備わる、みたいなもの)との相似形として捉えていました。
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