遊動と定住の狭間:グレアムの場合 『はみだしっ子』考察

0.この論考の公開にあたって

この論考は、2019年に刊行された『三原順本つくりました』発行:三原順本をつくる会(以下、つくる会)から私が寄稿したものを、つくる会代表の許可を頂きnoteで公開するものです。代表であるOrnithine氏とはツイッターで知り合ったのですが、後に同じ大学だと判りました。同じ作家のファンであり今では学友でもあるOrnithine氏が居なければ、この考察を世に出す機会もなかったでしょう。この幸運な出会いに非常に感謝しております。

『三原順本つくりました』は2019年に同人誌として発行し、O氏も、そしてお手伝いした私も初めての同人活動でしたが奮発して100部近く刷り、三原順先生を巡るイベントの力もお借りして完売することができました。ありがとうございます。2020年は三原先生の出身地である札幌で初となる原画展が行われる予定だったことから『三原順本』も増刷する予定でしたが、コロナの影響で原画展も延期になり、お金のない学生である自分たちも費用の面から増刷の予定を延期しております。多くの美術展やファンイベントが中止となる中でやむを得ない状況ではありますが、様々な状況が回復した暁には『三原順本』も増刷して、三原先生や昭和の少女マンガを巡るイベントなどにお目見えできたらと考えております。


1.はじめに:定住と遊動と、その困難

親と不仲な子供はどこへ行けばいいのだろうか。GASMの4人は、互いにとって互いが家族でありながらも、安住の地を見つけられず放浪していた。時に楽しいことがあっても、子供だけの放浪は様々な面で困難を伴う。そしてJとPという養親を得てもなお定住しきれないグレアムは、周囲との関係を良好にすることよりも孤立を選び、「ここではない場所」に旅立つことに「暗い情熱」を注いでいく。親子関係という、人生で初めて築く関係性で躓いた人間は、他の人間とも恒常的に良好な関係を築くことが難しい?本当に?グレアムが直面する定住と共存の困難は、時代を超えて多くの読者にとって共感を呼んだことだろう。私もその一人だった。

 私にとって「はみだしっ子」の魅力は、4人の放浪生活への憧れだったり、グレアムの優しさ、アンジーの美男さ、サーニンの野性味、マックスの可愛さ、ジャックの理性…少女マンガという枠組みを外さずにいて、しかし挟まれる哲学や倫理学的な問いかけ、それを仕掛ける作者である三原順への尊敬、数え上げればキリがない。そしてもうひとつ、私にとって「はみだしっ子」を読み込むことになった要因はなんといってもその「難解さ」だった。「はみだしっ子」の「グレアムのメモ書き」や「あの告白」。放浪時代の「楽しさ」パートと後半のこの不可解さのギャップが私を三原順の作品の世界へ一層のめりこませたことは間違いない。そして「オクトパスガーデン」において、作者自らによる「はみだしっ子」の解題が行われ、「あの告白」はポジティブなニュアンスを含んでいることを示唆した。あんな結末なのに、ポジティブなニュアンス?一体何故? 子供の頃から20年以上、悩まされた。

「他人(ひと)はなぜ定住しようとするのだろう」

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子供の頃はルビの読み方だけが頭に残り「“ひと”はなぜ、定住しようとするんだろう」と覚えており、そして「人間はなぜ、定住するのだろう」という意味で捉えていた。しかし改めて単行本を読むと、「他人」と書いて「ひと」というルビが振ってある。なぜ人間は定住するのか、しなければならないのか。一般的な家族という枠組みを解体して放浪生活を送っていたアンジー(達)にとって、JとPという養親と家を得て裁判が終わってもなお、定住することが当たり前の人間は「他人」であり、自分(達)は定住という枠組みの外から来た人間であるというアイデンティティを読み取ることができる。

 人はどうして定住しようとするのか。他人との諍いを避けるために放浪してはいけないんだろうか。かつての4人のように。しかし、GASMの4人ですら放浪には終止符を打った。なぜだろう。定住する社会に生まれ落ちた私たちは、放浪することはできないんだろうか。それがどんなに苦しい境遇であっても。何故。

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