夏の果|ショートストーリー
今日私は、あの頃の父と同じ歳になった。
父は寡黙な人だった。そして少しばかり頑固で、仕事であまり家にも帰ってこない人だ。だから私は優しくいつも笑っている母が大好きだった。
母はなぜ父と結婚なんてしたんだろう。
そう思うほど、2人が話しているのを見る日は少なかった。それほどまでにも寡黙な人だった。
こっそりと入った父の書斎にある写真立てには、ふたりの笑顔の写真があった、それがなんだかどこか遠くの出来事のように感じていた。
あれは、日差しで溶けだしてしまいそうなある夏休みの日のことだった。
当時私は山と川が近くにある、今で言う田舎に住んでいた。家は木造の一軒家で、廊下は歩くとギシギシと音が鳴る、階段が少し急な古い家だった。
その日も父は朝から仕事に出かけていて、私は友人と川に釣りに行くことになっていた。母は相変わらず笑いながら、庭に洗濯物を干していた。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
帽子をかぶって、サンダルを履き、釣竿を持って、自転車に飛び乗った私の背中に母は優しく声をかけてくれた。
この日は何匹も魚が釣れて、川に飛び込んだり、皆で虫を採ったりして、あっという間にとっぷりと日は暮れ、茜色の道を自転車に乗って帰っていた。
「ただいま!」
玄関から大きな声で母に声をかけた私は、母からの「おかえり」という言葉がないことを不思議に感じた。
いつもの玄関、夏のじとりとする空気、蝉の鳴き声。
なんだか嫌な予感がした。
ギシギシと音を立て、台所に向かった私は、倒れている母を見て頭が真っ白になってしまった。気が付いた時には自転車を走らせ、病院に駆け込み、医者を連れて帰ってきていた。父が反対の駅の方の道から息を切らして走って来ているのが見え、思わず涙が溢れた。
「男児たるもの、人前で泣くな」と祖父から言われていた私は必死で涙を止めようとした、止めようとすればするほど涙が止まらず、父はそんな私の帽子を取って、坊主頭をガシガシと撫でてくれた。
いつの間にか涙は止まっていた。
母は熱中症だった。大事には至らず、その日はそのまま母は病院で入院することとなった。
その晩、父の自転車の後ろに乗り、蝉が鳴く田んぼの中を帰った。
父の大きな背中は背筋がしっかりと伸び、麻の白いシャツには汗が滲んでいた。父はひとことも喋らず、あぜ道で揺れる自転車の振れに耐えながら、私は蝉の鳴き声をぼんやりと聞いていた。
家に帰り、ぐったりとしながら風呂に入った私は、すぐに眠りについた。
深夜、早く寝すぎたためか、それとも不安だったのか目が覚めてしまった。
音を立てないように起き、隣の部屋で寝ているはずの父を見やるがそこには抜け出した布団があった。
父を探しながら、水を飲もうと、居間に行くと、あの人が縁側に座って、ビールを呑んでいるのが見えた。それは当時の私にとってはとても珍しい光景だった。なんせ父はあまり酒を飲む人ではなかったからだ。
「なんだ、まだ起きてたのか」
「うん、眠れなくて」
父は隣を見遣って、私に座れと促した。
バケツに冷やしていたラムネの瓶を何も言わず渡してくれた。
草木の匂い、雨の匂いがする。
昼間よりも随分と涼しい縁側は、夏の終わりを彷彿とさせた。
父は静かにビールの入ったコップを傾けている。
私はラムネの瓶の中にいるビー玉を見つめて、母のこと考えていた。
「涼しいな」
そう静かに言った父の横顔を見上げると、いつもは背が高くよく見えない目がそっと伏せられていた。
その表情が、きっと母のことを考えているんだ、父も、母のことを、と幼心にそう感じた。
「うん、そうだね、」
父と私はお互い空に浮かぶ白い月を見やりながら、ビールの入ったコップとラムネの瓶で静かに乾杯をした。
好きなものを大げさに言わない人だった。
寡黙で、少し頑固で、そしてきっと母が一等大切な人だった。
そんな父との、この乾杯は私をひとつ大人にした。
父とふたりきりの乾杯はこれが最後だった。
あの夏からもう随分と経ってしまった。
私も随分と歳をとった。
仏壇の前で手を合わせ、目を伏せた私は父に想いを馳せていた。
あの頃、母に想いを馳せていた父のように。
夏の果(読み)ナツノハテ
夏の終りである。果てる、終る、の語には物悲しい思いがつきまとう。
帰省や避暑などが終わり、去り行く夏が惜しまれる。