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【ネタバレ】映画「ルックバック」を観て

ルックバックを観た。

漫画は読んだことがあって、でも正直なところあまり理解できず記憶に残っていなかった。

そんなわけで新鮮な気持ちで見た映画ルックバック。

映画でもわからない部分がなかったわけじゃないけど、漫画読んだ時と比べるとだいぶ理解できた気が、、、する。
そしてすごくすごくよかったので、興奮冷めやらぬうちに、ネタバレだらけの感想を書いていくよ!!



あらすじ


その前に、まだ観ていない人に向けて公式のあらすじを。

学年新聞で4コマ漫画を連載している小学4年生の藤野。クラスメートから絶賛され、自分の画力に絶対の自信を持つ藤野だったが、ある日の学年新聞に初めて掲載された不登校の同級生・京本の4コマ漫画を目にし、その画力の高さに驚愕する。以来、脇目も振らず、ひたすら漫画を描き続けた藤野だったが、一向に縮まらない京本との画力差に打ちひしがれ、漫画を描くことを諦めてしまう。

しかし、小学校卒業の日、教師に頼まれて京本に卒業証書を届けに行った藤野は、そこで初めて対面した京本から「ずっとファンだった」と告げられる。

漫画を描くことを諦めるきっかけとなった京本と、今度は一緒に漫画を描き始めた藤野。二人の少女をつないだのは、漫画へのひたむきな思いだった。しかしある日、すべてを打ち砕く事件が起きる…。

劇場アニメ『ルックバック』公式HP


さて、ここからは私の感想兼考察(ネタバレ有)を綴ります!
視聴済みの人はぜひ読んでください。
まだ観てない人は、観てください!


※以下、ネタバレ注意!※



藤野と京本の「漫画を描く意味」の違い


「じゃあ藤野ちゃんは、なんで漫画描いてるの?」

後半の回想シーン、「漫画なんてめんどくさいだけで、好きじゃない(うろ覚え)」と話す藤野に対して京本が放った言葉。

私はそれまで、
「自分を認めてもらうために絵を描く藤野」と、
「絵を描くのが好きで絵を描く京本」の
対比を描いてるんだろうなと思ってた。

だから、「なんで漫画描いてるのか」に対して、藤野は「認められたいから」と答えると思った。

現に、藤野は自分より絵の上手い京本の出現によって自分が認められなくなる(一番じゃなくなる)と、四コマ漫画を描くのをやめて、別のことで認められようとした。(友達グループの輪の中に入る、空手をはじめる…)
藤野にとっての絵は、自分が認められるという目的の、手段の一つに過ぎなかった。だから、目的が達成されるのならその手段は絵じゃなくてもよかった。
(なんだか自分を観てるようで心苦しいよ(-_-;)

対して京本は、元から自分より上の存在(藤野)を認めていた。
藤野が一度は諦めた「漫画を描くこと」を、京本と話したのを機に再開したのは、京本が「漫画を描く藤野」を認めてくれていることを知ったからだろう。
さらに京本は、世間に認められる確定ルート(藤野とともに漫画家として連載すること)を断ち切ってまで、「絵がもっとうまくなりたい」という気持ちを優先し美大進学を選んだ。


こんなふうに、
「レースの中で一番になり、認めてもらいたい藤野」と、「絵を描くことが好きで、もっとうまくなりたい、自己記録を更新したい京本」は、
「たまたま同じレース(絵、漫画)を走っているけど、目指すゴール(目的)はぜんぜん違う二人」
という印象だった。


が、

「じゃあ藤野先生は、なんで漫画描いてるの?」

この台詞のあと流れたのは、
藤野と京本が仲睦まじく漫画を描く日々だった。

それが、
「なんで漫画を描いてるのか」
に対する藤野の答えだった。

最初こそ、自分を認めてもらうために絵を描いていた藤野だったが、
いつの間にか絵を描く目的が「認められること」から「京本と一緒に漫画を描くこと」に変わっていたのだ。

このときの藤野は、「京本と一緒にレースを走ることが楽しくて、ゴール(認められること)はどうでもよくなっていた」と言うのが正しいかもしれない。
(一番でいたいという目的は変わらずあったと思う。京本の少し前を走りつつ、一緒に走ることが楽しかった。)

でも京本は違った。
ずっとゴールを見ていた。
はじめは藤野の背中を見てるだけだった、いつのまにか手を引かれて、ついにはすぐ後ろに並んで、一緒に走れるようになった。
それはすごく嬉しいことだったけど、京本には、自分の目指すゴールがあった。この先は藤野とは別のレースで、自分のゴールに向かって走ることを決めたのだ。だから藤野の手を振りほどいた。

一度は交錯したのに結局分かれてしまう二人の道のことを思って、心苦しくなるね(;_;)


「ルックバック」の意味


次に、ルックバックの意味について考えます。

・「背中を見る」の意
・「後ろを振り返る」の意
・「見返り」の意

があるんじゃないかなと勝手な推測です


「背中を見る」の意

ここでいう「背中を見る」は、自分ではない他者の背中を見る(優れたものをまねて、追いつこうとする)という意味です。
劇中でも頻出されていたキーワードで、
例えば藤野が京本に「京本も私の背中見て成長するんだなあ」と言ってたり、京本の描いた四コマ漫画のタイトルも「背中を見て 京本」。
京本が藤野にサインを書いてもらったのも背中だったし、
あと単純に背中を映す構図がすごく多い。多分意図的にやってる。


藤野が京本の背中に書いた「藤野」のサインについて。
劇中で映ったのは、サインしたときと、大人になった藤野が京本の部屋で「背中を見て」の文字につられてうしろを向いたときの二度。
これが唯一、藤野が京本の「背中を見た」シーンだと思う。

物理的に「背中を見る」描写も「相手を優れたものとして、追いつこうとする」ことの示唆だとするなら、
京本と面と向かって話すまでの藤野は、京本を「自分より上手い絵を描く人」=「優れた人、追いつこうとする対象」として見ていた。だから背中を見た(サインした)。
けど、その後の会話で、京本が藤野をまさに「優れた人、追いつこうとする対象」として見ていることがわかり、このときから藤野にとっての京本が「背中を見る対象」から「自分の背中を見せる対象」へと変わった。
「京本も私の背中見て成長するんだなあ」という台詞はまさにそれがよく表れてますね。
まあ、言ってしまえばここで「藤野が前(上)」で、「京本が後ろ(下)」みたいな構図ができたということ。
対等な「友達」が理想だけど、世の中こういう、実は上下関係のうえでなりたってる「友達」も少なくないと思います。
(『宇宙よりも遠い場所』のめぐっちゃん&キマリに通ずるものがある…)

てか凡人藤野が天才京本に背中を見せてるって構図、改めて考えるとすごく違和感!あえてそうしてるんだろうけど。。


そういうわけで、それ以降はずっと藤野が京本の前にたち、背中を見せてきた。
京本が死ぬまでは。


二度目に藤野が背中(サイン)を見たのは、京本に先立たれたときのことだった。
先立たれる=前(さき)に立たれる=背中を見せられる
というのはこじつけ解釈かもしれないが、
京本の背中をようやく見た、そのきっかけが「京本の死」であったことは確かだ。

芸術家が、死んだあとで優れた芸術家であったことを評価されることはよくある話だが、
このとき藤野が京本の「背中を見た」のは、藤野の「芸術家」としての優秀さに気づいた…というよりも、自分にとって京本という「友達」の存在がどれだけ優れた、かけがえないものだったかを、京本の死をもってようやく痛感したっていうことを表してるんじゃないかな。
簡単に言っちゃえば、失ってその大切さに気付いたってこと。

それから、「京本にとっての藤野」について。

京本は、「藤野」の背中をずっと見ていた。
と同時に、「藤野」の存在を背中に負っていた。背負っていた。
「一人の力で生きてみたい」と思う京本にとって、「藤野」はしがらみでもあった。
背中に「藤野」の文字が書かれた法被を着ていたのは、それを視覚的に示す意味もあったんじゃないかなとも思ったり。


「後ろを振り返る」の意

続いて、「後ろを振り返る」の意について。
「look back」の本来の意味がこれだよね。

藤野は、部屋で漫画を描いていて、お姉ちゃんが勝手に部屋を開けたときも、決して後ろを振り向かない。違和感すら感じます。
というか、「机に向かう藤野の後ろ姿」の描写がこれでもかというくらい何度も出てくる。漫画の表紙もそうだし。
先頭を走り(一番を望み)、後ろを顧みず、ひたすら描き続ける、前に進み続ける。
そんな藤野の性格がよく表れていると思う。
そんな性格だから、京本が藤野の手を振りほどいて「藤野ちゃんに頼らないで、一人の力で生きる」ことを選んでからも、歩みをとめず、ひたすら机に向かって、前に向かって走り続けた。そうするしかなかった。
自分の選択が間違ってないことを証明するために。

でも、京本が死んじゃって、前に進めなくなった。
歩みを止めて、
はじめて後ろを振り返った。
京本との過去を振り返った。

そうしたら「京本」と、「京本との日々」が藤野にとってどれだけ大切だったか ようやくわかったんだね。

「背中を見る」の話に少し戻るけど、
京本の死後、藤野が京本の部屋に入ると、窓に「藤野先生」の四コマ漫画がびっしり貼られ、京本の机はそれに向かうように配置されていた。
京本は、「藤野先生」の背中をずっと見ていたのだ。
それを見た藤野は、
(この間にパラレルワールドの回想とかが入るんですがいったん省略)
おそらく京本が描いたと思われる四コマ漫画を自分の机の向かう先に貼り、
再び漫画を描き始めます。
まるで京本がそうしていたように、
今度は藤野が「京本」の背中を見て、漫画を描くのでした。

…よい!😭

ここでちょっと、関係あるようなないような、過去の捉え方に関する話をぶち込ませてください!

こういう時は 前向きに後ろを振り返ってみるんじゃ!

『子供はわかってあげない』

漫画『子供はわかってあげない』の、台詞(映画もあるよ!)。

前を向きたいのに、過去のことがひっかかって、上手に前を向けないとか
前を向いた気になっているだけで、本当は前を向けていないとか。
そういうことってみんなあるんじゃないかなと思う。
京本が大学に行って、一人で漫画を描くようになった藤野がまさにそんな感じ。後ろを見ないように無理やり前を向いてるだけ、みたいな状態。

でも、過去を振り返ることってなかなか難しい。
私たちが過去を振り返るとき、そのほとんどが後悔や反省で、暗い気持ちになってしまいがちだから。

ルックバックでも、
「なんで描いたんだろ。私があのとき漫画描いたせいで。描いてもなにも役にたたないのに…」
と、藤野が京本の死んだ原因を、自分が漫画を描いてしまったからだとして後悔してるシーンがありますね。

もちろん、過去を振り返る中で、自分の罪と向き合うことはすごく大事なことなんだけど、
「してしまった嫌なこと」や「された嫌なこと」だけじゃなく、
「してよかったこと」や「されてよかったこと」にも目を向けることが、
もっともっとすごく大事だと思うの。

『子供はわかってあげない』の、「前向きに後ろを振り返る」ってこういうことだと私は思ってます。

あと、「前向きに後ろを振り返る」を体現したような好きな歌詞があるので、共有します。

戻れぬ日々を思い出して 笑えたらそれでいい

サバシスター/マイベストラブ!

君はやっぱり離れてったけれど 
大切なものを沢山、ありがとう

サバシスター/『キラキラユー』

嫌な思い出を無理やりいい思い出に消化
(例えば、自分をいじめた人に対して、あの時いじめられたから今の私があるから感謝!とか)しようとするんじゃなくて、
嫌な思い出は変えられなくても、
笑わせてくれたとか、大切な思い出を沢山くれたとか、
そういう嬉しい思い出のほうにも目を向けると、前を向けるんじゃないかしら。

こういう着眼点の歌詞ってありそうで意外となくて、
私がサバシスターの歌詞に惹かれる所以ってこれだなーと発見。

(ただ、すごく嫌な思い出がある相手にもすごくいい思い出があることで、嫌いになりきれなくて余計に辛くなっちゃうってことがあるので、そういうときはいい思い出をあえて記憶から抹消しちゃって嫌いになりきるほうが心が楽だったりします)

話を戻します。
これに倣うと、はじめは後悔に苛まれていた藤野が再び前を向いて漫画を再開できたのは、
京本の「部屋から出てよかった」「描いててよかったって思えた」「部屋から出してくれてありがとう」を、ちゃんと思い出せたからだと思う。

過去をとらえなおし、過去(後ろ)の後悔を解消できたから、
堂々と前を向けたんだと思う。

過去の事実は変えられないけど、過去の捉え方は変えることができる。

人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。

『マチネの終わりに』

映画『マチネの終わりに』(小説もあるよ!)では、
それを「過去を変えてる」ことだと言い切ってます。

あと。
ルックバックでは、
藤野が京本の家で四コマ漫画を描かなかった世界線の話…パラレルワールドも描かれています。
京本の描いた四コマ漫画「背中を見て 京本」を読んでパラレルワールドの話が始まったので、おそらくこのパラレルワールドは「背中を見て 京本」をもとに藤野がえがいた『ルックバック』なのかな。
そこでは、京本は同じく美大に進み、藤野は空手家に。
空手家になった藤野が、京本を殺人犯の魔の手から救います。

このパラレルワールドを「背中を見て 京本」をもとに藤野がえがいた『ルックバック』
だとする考察が正しいとしたら、藤野は自分で漫画を描くことによって「過去を変えた」んだろう。
「描いてもなにも役にたたないのに…」って言ってた藤野が、描くことで過去を変えた。京本が死なない世界を、描いてつくった。
そう考えると感慨深い。


「見返り」の意

最後に、「見返り」の意について。

繰り返すようだけど、藤野は最初、周囲から「認めてもらうため」に漫画を描いていた。
言い換えれば、「認められる」という見返りのために、漫画を描いてたということ。

そんな藤野がはじめて「見返り」を求めることなく描いた漫画が、小学校の卒業式の日、京本の部屋の前で描いた四コマ漫画なんじゃないかな。
のちにその漫画を見た藤野が「なんで(漫画なんて)描いたんだろ。描いてもなにも役にたないのに…」と言ってるけど、
認めてもらうために漫画を描いていた少女が唯一描いた、認めてもらうつもりのない、「なにも役にたない」はずの漫画が、役に立たないどころか全ての発端で、「京本と藤野の物語」=「ルックバック」のはじまりだったのだ。
なんとも皮肉的!

それから、話が少しずれるけど
京本が描いたと思われる四コマ漫画「背中を見て 京本」は、
ずっと背景だけを描いていた京本が描いた唯一の物語。
藤野はそれをたまたま読んだことで、後ろを振り返る→背中を見る→京本や京本との日々の大切さを噛みしめ、また漫画を描くことを再開する。
京本の描いた何気ない四コマ漫画が、藤野が再び前を向くきっかけになっていることがわかります。

この二つのことに共通しているのは、
おそらく本人の意図しないところで、物語が大きく動いているということです。
物語に限らず、世の中の多くのことは、本人の意図しないところにこそ
何かを動かす大きい力があると思う
そういう可能性を孕んでいると思う

映画を見ていても、本編とは直接関係のない、無駄のように思える会話に救われることってあるよね!(上で紹介した『子供はわかってあげない』の台詞とか、そんな感じです)
だから意味とか目的ばかり求めて、合理的な生き方をしようとすることが必ずしも正しいこととは言えない!
だからもっと気楽に、無駄を愛して生きよう!!

 光の描写


失礼、話が拡大・脱線してしまいました😓
最後に、光の描写についての考察。(おまけ程度)

はじめて藤野が京本の家を訪れたときに、
卒業証書を置いて家を後にした藤野を、京本が追いかけるシーン。
玄関はかすかに開いていて、光が差し込んでいる。
京本がそこに飛び込むと、眩い光が京本を包み込む…

この光は、京本にとって文字通り「希望の光」だったんだと思う。
もしこの扉を開けて(扉を開くという行為は、「京本の新たな扉を開く」の暗喩でもあったと思う)、そこに憧れの「藤野先生」がいたら。
何か変われるかもしれない。
そういう「希望の光」。

対して、京本の大学進学を機に一人で漫画を描くことになった藤野。
暗い部屋で、パソコンの光を頼りに作業を進めているが、
その光は冷たく、頼りない。
「希望の光」とは程遠い。
前を向き、ひたすら漫画を描き続けているものの、
本当はそこに希望が持てない。
そんな藤野の不安な心の内を表しているんじゃないか。

だから、再び漫画を描き始めた藤野が、太陽の光が差し込む部屋で漫画を描いているエンドロールを見て、改めて「藤野、堂々と前を向けたんだなー」と嬉しくなりました。


てか、この映画みて、「自分もなにか頑張ってみたい!藤野みたいに!」って思った人すごく多いんじゃないかな。
終始、「視聴者に向けて背中を向ける(机に向かう)藤野」の描写があったし、無意識に我々も「藤野の背中を見せられてた」ってことなんだろうな。視聴者まで物語世界に入れ込んじゃう演出、見事!


おわりに


ところで、私がこんな風に考察を書いてるのは、この映画の面白ポイントが「考察しがいのあるところ」だと思ったからなんだけど、
いろんな感想とかみるとそういう見方をしてる人があんまりいなくてびっくりした。
みんな純粋に「物語」として楽しんでいるというか。

個人的には、「物語」として純粋に楽しむには、わからないところ(ちゃんと考察しないと理解できないところ)が多いなあという印象でした。
ちょっと「ん?これどういうこと?」って部分があると物語に集中できなくなるので…
わからないからこそ、「こういうことかな?」って考える楽しみが沢山あるお話でした。

そして絵とか演出とか、美術的な部分も大きな魅力!ストーリーのない映像作品だったとしても、それはそれで絶賛されていたんだろうと思うくらいには、すごい映像でした。

私的に、『海獣の子供』もこういう面白さです。考える楽しみが沢山ある物語と、圧倒される映像美の組み合わせ。

いずれにしても、すごく素敵な鑑賞体験でした!
これで58分なのが…やばい。
「最も得るものの多い1時間の過ごし方」と言っても過言ではないかも。

一度観た人も、これを読んでもう一度観てみると新たな気づきがあったりなかったりするかもなので、観よう!

そして紹介した映画や漫画や曲ものぞいてくれたら嬉しいな。
嬉しいので、もしのぞいてくれたら教えてください。
note読んだよ報告も嬉しいので、お願いします🐈

長いのに読んでくれてありがとう!おやすみ🌙

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