「私なら〜」というフィルターを外そう
いきなりですが、私はうつ病の症状とASDの特性のせいか、嫌なことを気にしない・考えないということがおそろしく苦手です。
どのくらい苦手かというと、気にしない・考えないようにすることの方がぐるぐる悩んでいるよりもよほどエネルギーを消耗して、苦痛に感じるというぐらいです。
でも、その気持ちはなかなか他人に理解されません。
嫌なことは気にせずに、考えずにしていれば楽なのに、この人はそのことに気づいていない、だから気づかせてあげよう…
そう思われているのか、悩みを愚痴ると相手からしばしばかけられる(かけてくれる)言葉は、
『そんなに気にしない方がいいよ』
『そんなことを考えるために、時間を使わない方がいいよ』
と言った感じ。
良かれと思って言ってくれているのは分かるのです。
でも、それを言われて私が思うのは、
そのアドバイスは、私にとっては実行のハードルが高すぎる。
これまでやってみようといつもしたけど、できなかった。
ということで、
要は、
できるのだったら、とっくにやっている。
ということです。
繰り返しですが、相手が良かれと思って言っていることは重々分かっています。
けれど、悲しいことに、私の特性を何度も説明したつもりでも、私の心が相手に理解されてはいません。
私も人に同じことをやってしまっているでしょうが、人間が相手に
(そんなことできたら、苦労しないよ😭)
と、思わせてしまうアドバイスをしてしまうのはなぜでしょうか?
記事のタイトルが答えになっていますが、
それは、
「私なら」
というフィルターをかけてしまっているからではないかと思います。
「私なら」そんなに悩まないことなのに、なんでこの人は、こうも長時間ぐるぐる悩んでいるのだろう?
「私なら」気にしない・考えないようにして済ませるのに。
そういった、「私なら」というフィルターが、
自分にはできることが、他の人にもできるとは限らない。
ということを忘れさせてしまっているのではないでしょうか?
あなたと私は違います。
私とあなたは違います。
あなたならできることが、必ずしも私にもできるとは限りません。
逆も然りです。
“他人は自分とは絶対的に違う”
もちろん、違う人間同士でも似通っている点もありますし、人権を尊重するためにみんなで同じことをやって足並みを揃えなければいけない時もあるでしょう。
しかし、絶対的に別の人間なのです。
同じ人間と言っても、一人一人が別の生き物なのです。
例えばですが、先程から述べている気にしない・考えないができない私という人間がいて、
気にしない・考えないができる他人がいる。
ということについて、
スポーツや筋トレがストレス発散になる人もいる。
一方で、体を動かすことが大嫌いで、スポーツや筋トレなんてかえってストレスが溜まる要因になるという人もいる。
……このことで例えてみると、
自分は気にしない・考えないができて、
それをできない他人のことが解せない。
という方にも、ピンとくるのではないでしょうか?
“みんな同じ人間である”(だから、全ての人の人権が公平に守られるべきだ)
と同時に、
“みんな違う人間である”(『みんな違って、みんないい』は人権尊重の基本中の基本)
前者と後者を同じぐらい大切にしていけることが、本当の意味で他者を尊重することで、真の共生なのかもしれませんね😊