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須田光彦 私の履歴書19

宇宙一外食産業が好きな須田です。


東京での生活が始まり徐々に慣れていくと、東京と帯広の地域性の違いを嫌というほど感じていきました。

言葉も習慣も違っており、学校でも寮でも地方出身者ばかりだったので、その違いを全員が共通の課題として克服していく日々でした。

専門学校は定員200名のところが、入学するなんと400名も生徒がいましたが、このことにも驚きましたが、さらに驚いたのはゴールデンウィークが終わると生徒が200名未満になっていたことです、半分の生徒が一気にいなくなりました。

教室は広く使えるようになって、環境は良くなりましたが、一回も話したことのない人もいましたが、退学していきました。

上京後1か月で東京での生活になじめない、思っていた学校生活と違っていたなど、それぞれの理由で辞めていく生徒が続出しました。

結果的に、無事卒業したのは40名に満たないほどの生徒数でした。

寮も、数名ですが退寮する人がいました。
そんなになじめないのかなぁぐらいに思っていましたが、夢に対する熱量が違うんだなとも感じていました。

どこかで、帰れる場所がある奴はいいよな、帰れる奴は帰ればいいんだとも思っていました。

学校では、そこそこ優秀でした。

特にデッサンの授業が好きで、何度も作品を展示されることがありました。

1年生の終了課題も、優秀賞をいただき、卒業制作も最優秀賞をいただきました。
東京都主催の専門学校展というのがあって、そこにも学校を代表して作品が展示されました。

専門学校の2年間は、自分なりに一生懸命勉強しました。

働きながらの学校生活だったので、常に時間と睡魔と空腹との闘いでした。

学生寮は1年契約だったので、進学と同時にアパートを借りることになりました。
アパートなど借りたことが無いので、不動産屋さんの言われるままに契約をして、親にまたまた負担をかけてしまう結果となりました。

昨日もUSEN主催のセミナーで、居抜き物件の取得法をテーマにスピーカーを務めてきましたが、今なら、絶対にそんなことはないのですが、この時は人生初の不動産交渉で、すっかりやられてしまいました。

引っ越したのは三鷹市です。

渋谷から離れたくなかったのと、井の頭線は吉祥寺始発渋谷終点でしっかりと座れること=寝れること、吉祥寺駅からは更にバスで15分ぐらいでしたが、自転車ならお金もかからないしと思って駅から遠い物件を借りました。

自分で払えると思える家賃の限界が、この距離間の物件だったんですが、もっと駅近で安い物件があることを後々知って騙されたと思ったものです。

ただ、このアパートに引っ越して、お隣の方がたまたまパン屋さんを経営している職人さんでした。
引っ越しのご挨拶に伺うと、「アルバイト決まった?」と突然聞いてきます。

プリントショップは1年で辞めていたので、次のアルバイトを探しているタイミングでした。
このパン屋さんはスクラッチでパンを製造販売しているお店で、勿論当時は冷凍パンが出るずっと前の時代ですから、パン屋さんと言えばスクラッチが当たり前でした。

スクラッチとは粉から仕込んで、パンを焼き上げる手法のことを言います。
現在は多くのお店が、冷凍生地からパンを焼き上げる手法をとっています。

いずれパン屋の仕事が絶対に来るだろうと考え、その時のための準備と修業と思い、二つ返事で働くことにしました。

朝6時から学校に行くギリギリまでパン屋で働きます。
童謡にもあるようにパン屋さんの朝は兎に角早いです。

学校から戻ってきてから閉店の8時まで仕事をします、朝と夕方の1日2回お店に入る生活が始まります。

ここでパンに関することはしっかりと教えていただきました。

最もうれしかったのは、毎朝オーナーの奥さんが朝食を用意してくれることです。
毎日朝定食を用意していただけますが、これが本当に嬉しくて朝ごはんにありつけることはスペシャルなことでした。

ちなみに専門学校の卒業制作は、ベーカリーレストランでした。

井の頭公園に面したロードサイドのフリースタンディングの設定で、店舗のデザインから商品構成からユニフォームとグラフィックなどを網羅した作品を作って、内容的にはまるっきり今やっている仕事のままの作品でした。

多くの生徒は建築的な作品のみのなか、トータルでのプレゼンテーションとなる作品でした。

バーカリーレストランのサンマルクを初めて知ったときは、「あっ これ俺の卒業制作じゃん!」と思いましたが、デザインテイストは違いますが、ほぼほぼ同じ内容でした。

このパン屋さんでは不名誉なあだ名で呼ばれていました。
それぐらい非常識な言動が多く、オーナーに多大なるご迷惑をおかけしたものです。

現在もこの店は営業をしていて、先だってパンを大量に大人買いしましたが、今は飲食業界のことや営業や経営のことなどまじめな話題をお話ししますが、「あの須田君がねぇ~」と、いつもオーナーに笑われてしまいます。

ここでも、いつも夢の話はしていましたが、デザイナーで食えなくなってもパン屋でやっていけるようにとオーナーに言われ、しっかりと仕込んでいただきました。

初めて就職したデザイン事務所でPascoさんのお店を設計させていただきました。

イトーヨーカドーの中のインストアベーカリーでしたが、どう見てもオープン前の準備が間に合いそうにありません。

見かねた私は、突然仕込みを手伝いだしました。

まるめという作業がありますが、ベテラン社員の方と遜色ないクオリティで生地をまるめていきます。
しかも私は両手で同時にまるめることができるので、一気に仕込み作業が終了していきます。
一つのパンを仕込んだら次は何ですか?その次は何ですか?と聞きながら、4~5時間お手伝いをしたことがあります。

その時、応援に来ていた本社の偉い方が
「なんで須田さんはまるめができるの?しかも両手で、ウチの若手よりも早くてきれいで、なんでなの?」
手を動かしながら聞いてきましたので、以前パン屋さんで修業していたこと、いずれパン屋さんの仕事が来るだろうと、しっかりと仕込んで頂いたことをお伝えしましたが、

「なんでそんな人がデザイナーなんてやってるの! ウチの社員にならない?」と、スカウトされました。


“デザイナーなんて”という言葉に反応してしまい、「あ~ お店の人はそういう認識なんだ」と、新たな気づきを得ることが出来ました。

プラスになる良い気付きを得られる経験でした。


このパン屋さんは専門学校を卒業するまで勤めました。

上京後2年目からは、生活費は自分で賄っていました。
本当に苦しいときだけ親に助けてもらっていましたが、基本的には2年目には自分の生活費は自分の稼ぎで賄っていました。

ある日、パン屋さんの仕事が終わって、いつもの通り頂いた売れ残ったパンを夕食にしていました。

毎日毎日パンを食べていましたが、夜中まで学校の宿題の作品を作っていると、お腹がすいてどうにもならなくなります。

食後3時間で空腹になる、そんなころです。
アパートには食べるものもなく、コンビニもまだないころです、お店は一軒も空いていません。

その前にお金がありません。

そこで、スーパーのレジ袋を台所の下から引っ張り出し、近所のファミリーレストランに行きます。

もうなくなってしまった、スエヒロ5というハンバーグのファミリーレストランでした。

通りの反対側で閉店を待ちます。

深夜3時閉店のお店でしたが、片づけをしてごみを出してスタッフが帰宅します。

それを見計らって、通りを渡ってお店の裏のごみ置き場に行きます。

ごみから、ハンバーグの食べ残し、ステーキの切れっぱし、野菜もちょっとと、スーパーのレジ袋に次々と入れていきます。

他のごみもタバコの吸い殻もついている、正真正銘本当のごみです。

それをアパートに持って帰って洗い、火入れして味をつけなおして食べました。

自然と涙が出てきて止まらなくなりました。


「なんで、こんな思いまでして俺は東京に居るんだ?」

「帯広に居たら、少なくともこんなことは経験しないはずだよな」

「でも、こうやって成功していくんだよ。こうやって大きくなるんだよ  こんなことなんでもない、サッカー部のあの3年間のことを思えば、   ごみを食うぐらい、なんてことはないわ!」


いつもの通り怒りが湧いてくると、涙も止まって闘争心が燃え上がります。
いつもの通り“今に見てろ”と、誰に対するわけでも何に対するわけでもなく感じ出します。


ちょっとだけ仮眠してまたいつもの6時になって、何もなかったようにパン屋さんの仕事を始めて学校に行きます。

そんな19歳でした。

このごみを食べたことは、親は勿論誰にも話せませんでしたが、唯一姉にだけは話しました。


30前まで酔って昔のことを考えていると、このことを思い出すと悔しくて涙が出ることが何回かありましたが、そのたびに気持ちを新たにリセットできたものです。

28歳で独立して30を過ぎてからは一回もありませんでしたが、それぐらい悔しく大切な経験でした。


このパン屋さんは1年で辞めて、吉祥寺の駅前のインテリア館ミヤケという雑貨と家具のお店で働きだします。

食器の流通と仕入れの方法とルートを知りたくて、そして最も大事なセールスを学びたくて働きだしました。

時給も一気に上がり、生活は少し楽になっていきました。

ここでも沢山のこと学ばせていただきました。

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