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【超解説】 白雪姫がラリったかも / 「サスペリア」
一昔前、岩波文庫に『阿片常用者の告白』というブッとんだ自伝が収録されていた。今でも刊行されているのか知らないが、イギリスの評論家トマス・ディ・クィンシーのこの著作はラリっている人の幻覚などについて興味深い記述が多数あり、ヨーロッパの芸術家たちに愛読されたという。ディ・クィンシーは後に幻覚などについて書き溜めたエッセーなどをまとめて、Suspiria de Profundis(深き淵よりの嘆息)と名付けて『阿片常用者の告白』の続篇として刊行した。イタリアの映画監督ダリオ・アルジェントはこの本にずいぶん影響されたらしい。
ダリオは1975年に Profondo Rosso という映画を発表し、その2年後に Suspiria を公開した。原題を見れば分かるように、この2作はディ・クィンシーの著作から想像を膨らませて完成させた姉妹篇である。ちなみに、suspiria とは"ため息"を意味するラテン語 suspirium の複数形である。ところが、東宝東和は Suspiria をまず「サスペリア」という邦題にして公開し、「サスペリア」がヒットしたことを受けて Profondo Rosso を「サスペリア PART2」として配給した。つまり、過去に公開されている作品がPART2になっている。「サスピリア」ではなく「サスペリア」にしたことといい、東宝東和は映画に関わるべきではない。
さて、「サスペリア」はよく"ホラー映画"というジャンルに分類されているが、これは完全にアートである。それはスクリーンのなかで象徴的に使用される明るい赤色に表れている。前作 Profondo Rosso とは直訳すれば深紅であり、それに対応するように「サスペリア」では血液にはとても見えないほど明るい赤が使用され、スクリーンの色調がどこか現実離れしているように表現されている。この理由はストーリーを追いかけていくことで理解できる。
主人公スージー(ジェシカ・ハーパー)がフライブルクにあるバレエ学校に入学すると、殺人をはじめ身辺に奇妙なことが次々と発生し、黒魔術あるいはオカルトを匂わせるような筋書きになっている。これは要するに「青ひげ」や「白雪姫」などグリム童話と全く同じ構造である。スージーの衣装の様子から察するに、「サスペリア」とは「白雪姫リミックス」だろう。明るい赤が強調されているスクリーンの調子は、つまりおとぎ話の映画、すなわちディズニー作品に近付けようとした結果なのだ。
また同時に、ジェシカ・ハーパーという童顔で胸のほとんど膨らんでいない女優を起用したように、本作はへべフィリア(hebephilia、思春期の子に対する性的欲求)を暗示している。スクリーンを満たすあの明るい赤とは、おとぎ話の主人公と同様に、処女も意味するだろう。
イタリアのプログレッシヴ・バンドであるゴブリンが担当した音楽も素晴らしく、観客の不安な気持ちを増幅させることに成功している。なお、映画で使用されたバレエ学校の建物はセットではなく、Haus zum Walfisch という名の建築でフライブルクに現存している。
さて、白雪姫ことスージーが入学した学校は魔女へレーナ・マルコスの支配する館でした、というおとぎ話を終えるために、ダリオ・アルジェント監督は阿片常用者であったディ・クィンシーの要素を入れた。それは映画の本当に最後のシーンに挿入されている。本作をずっと鑑賞してきた観客が明らかに違和感を抱くような、スージーの満面の笑みである。
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映画の全篇を通して緊張した表情をしていたスージーのこの笑みは「魔女を退治したわフフフ」という安堵から生まれたものには見えない。ダリオはこの「アハハ」に近い笑い方をあえてジェシカ・ハーパーに演技させたことによって、この映画そのものが夢あるいは幻覚でした、というメッセージを含むように撮っている。そう考えると、血液にしては違和感のある赤の表現もすっと理解できる。白雪姫のようでありながら、処女の見た悪夢とも受け取れるようなラストシーンである。つまり、本作はホラー映画ではなく、アートなのだ。
このスージーの満面の笑みは、本作の7年後にダリオの友人であるセルジオ・レオーネ監督が映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」のラストシーンでオマージュした、と言っても構わないだろう。ヌードルス(ロバート・デ・ニーロ)がアヘン窟へ行くと、1960年代のシーケンスになり、そして映画の最後にヌードルスは破顔一笑する。
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こうした笑顔は登場人物による自己言及に近いものがある。スクリーンのなかで表現されたことの全て、あるいは一部を夢や幻覚のように観客に感じさせることで、映画という表現や物語、そして人生までも、どこか幻覚のようなものではないか、ということを示唆している。