
パルム・ドールの白眉 / 「欲望」
イタリア映画といえば、フェデリコ・フェリーニ監督に代表されるような、登場人物の人生をじっと見つめる美しい映像が思い浮かぶ。ルネサンスの国なのだから、どんな人間にも愛のある視線だ。1966年に映画「欲望」(原題は Blowup)を発表したミケランジェロ・アントニオーニ監督は早くからネオレアリズモと距離を置き、人生というものがいかに孤独であるかというテーマで作品を撮っていた。黒澤明監督やスタンリー・キューブリック監督がアントニオーニの大ファンだと公言し、タルコフスキー監督やコッポラ監督、デ・パルマ監督ら多くの巨匠がその作品のなかでオマージュするほどの才能でありながら、この列島であまり知名度が高くない理由は、人生そのものではなく人生の不可思議あるいは不条理を撮ったからだ。つまり、文学のようなアートの調子がフェリーニ監督よりもさらに強い。
さて、「欲望」という映画はアントニオーニ監督の代表作の一つであり、カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞している。この作品はアントニオーニ監督がイタリアを離れてロンドンで撮影した、英語による映画である。主人公の写真家トーマスを演じたのは、本作が出世作となったデヴィッド・ヘミングスだ。前回の記事「グラディエーター」において、コロッセオを仕切るカッシウス役の俳優である。
劇中のトーマスに快活な笑顔はなく、どこか気怠い雰囲気で、ロールスロイスのシルヴァークラウドに乗る成功者でありながら、とても幸せそうには見えない。モッズと呼ばれるサブカルチャーが全盛期のロンドンをあてもなく運転し、公園へ行き、デートをしている男女の写真を撮る。こうした過程において、アントニオーニ監督は奇妙にも遠くから撮影するシーンを多用する。通常の街中のシーンでは考えられないような距離感だし、さらにパン(カメラを水平方向に振ること)もする。撮る高さもシーンごとに変えている。こうした手法によって、観客はどこか居心地の悪いような、ロンドンという海の中で登場人物が彷徨っているかのように錯覚する。孤独が満ちている。こうした"あてのない"こと、そして"他人と交わらない"ことが大都市のなかで表現されている。
トーマスが撮影した男女のうち、女(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)の方がフィルムを寄越せと要求してきたのでトーマスは断り、撮影スタジオで現像して引き伸ばし(blowup)してみると、そこには草むらから突き出た銃のようなものと、それを不安げに見つめるような女の顔が写し出されていた。夜になってトーマスが公園へ行ってみるとそこには男の死体が転がっている。驚いたトーマスが事務所へ戻ると、フィルムも引き伸ばしも、何もかもが盗み出されていたーー。
こうしたテーマはサイコ系あるいはスリラーに当たるのだが、しかし本作はこうした筋書きの途中にアンティーク店舗や若い女2人組とのエピソードなど、全く物語に関係がなさそうなシーケンスが何度も挟まれている。フィルムを暗室で食い入るように見つめるトーマスといい、人は何に"意味"を見出しているのか、という実存主義にも似た問いかけが本作を覆っている。物語を一直線に、すなわち観客が望むことだけを繋げていない。そのことによって、現像した写真にこだわるトーマス、フィルムを取り戻したがる女、事務所に出入りする勝手気ままな女たち、といったそれぞれの登場人物たちの人生が、どれも同じように"あてがない"もののように感じられてくる。こうした登場人物たちへの冷徹な視線はキューブリック監督のそれとよく似ている。
そういえば先日の「長江哀歌」の賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督についてアントニオーニ監督からの影響を指摘する批評がアメリカでなされたが、それはおそらく正しい。どちらの監督も、生きることのなかに常に潜む"シュール"を見つめているからだ。論理として繋がること、あるいは何かのきっかけに関係することだけを撮るなんて人生の省略に過ぎないという、究極のリアリズムともいえる表現だ。ヒッチコック監督の真逆である。ウルトラリアリズムなんて名付けたらいいのかもしれない。ウルトラだからこそ、どこか奇妙に見えてしまうという逆説だ。
さて、「欲望」を最後まで観ると、いったい何が"現実"なのか分からなくなる。人間は現実を"知覚"することによって現実感を得ているのだから、仮にどこかのシーンがトーマスの妄想あるいは思い過ごしだったとしても、それらを映して繋げた本作は"物語"として成立している。つまり、生きるなかで人間は思い過ごしばかりに囲まれ、それらに気を取られているだけではないのか、人生とは夢と同じことではないのかという、東洋哲学にも似た結末を迎える。これは黒澤明監督の「夢」に通じるテーマだ。
パルム・ドール受賞作のなかでも特に優れた作品である。後の映画監督たちに与えた影響も計り知れない。ただ、こうした"哲学的"なテーマは苦手な人が多いだろう。多くの巨匠たちを唸らせた本作の音楽は、ジャズ・ピアニストのハービー・ハンコックが担当している。どこか不安に満ちた映画のなかで、ジャズの軽快な調べが余計に物寂しい感覚を呼び覚ましてくる。ルイ・マル監督の1958年の映画「死刑台のエレベーター」といい「欲望」といい、不安や焦燥感のある映画にはジャズが似合う。
また、ライブハウスのシーンで演奏していたバンドはヤードバーズである。全盛期のジェフ・ベックとジミー・ペイジが演奏する姿を拝めるのだから、ハードロック好きにはたまらない。
ちなみに、本作の発表が1966年であることを考慮すると、現像した写真に心を奪われていくトーマスの姿は、公開の3年前に発生したJFK暗殺で登場したザプルーダー・フィルムを思い出させる。何が写っているのかと悩むトーマスは、生きるなかで"ありもしないもの"を追いかける人間の姿なのかもしれない。
蛇足になるが、文中でも書いたように、本作の題名は Blowup である。この単語は、写真の引き伸ばしという意味の他に、キレる/吹き飛ばす という意味があるものの、欲望なんて意味はないし、そもそも本作は欲望がテーマではない。もう何度も書いてきたことだが、洋画の邦題は本当にふざけている。「ブロウアップ」で良い。