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現実という名のフィクション / 「瞳をとじて」

まだこのnoteを始めて間もない頃、アルゼンチンの作家ホルへ・ルイス・ボルヘスについての記事を書いた。小説と同じように映画もまた絵空事を人に見せているが、この"絵空事"あるいはフィクションということの本質を突き詰めた作家がボルヘスだからだ。僕は大学生の時に読んで腰を抜かして以来、ずっとファンである。

さて、ヴィクトル・エリセ監督の2023年の映画「瞳をとじて」は、まさにボルヘスの小説が目指したものを映像として再現しようとした意欲作である。エリセ監督は当時83歳であり、これが遺作となることは間違いない。それに、エリセ監督は長篇映画を本作も含めて4作しか撮っていない。前作から31年ぶりに発表した「瞳をとじて」は、フィクションというジャングルの奥地へ向かった監督を追いかけるように、語ることの難しい映画である。
本作は Triste le Roy (悲しみの王)と名付けられたフランスの片田舎の屋敷から始まる。この Triste-le-Roy とはボルヘスの『伝奇集』に収録されている短篇「死とコンパス」に登場する館の名である。もちろん、読んでいなくても本作の鑑賞に支障をきたすことはない。庭のヤヌス像が映し出され、館の主レヴィがフランクという"活動家"に頼み事をする。舞台はフランコが終身統領となった1947年であり、フランコの独裁の時代をテーマにした作品なのかなと思いきや、これは劇中劇であることが分かる。そしてフランクを演じていた俳優フリオ・アレナスは撮影中の1990年に忽然と姿を消したということが明かされるーー。
冒頭からボルヘスを参照しているのだから、この映画はフィクションの土台である現実や観客という立場を崩してしまおうと目論んでいるフィクションであることが分かる。劇中劇で「死とコンパス」が引用された理由は、おそらくエリセ監督自身が「死とコンパス」を映画化しようと脚本まで仕上げていた"事実"に由来している。つまり、この映画のなかにエリセ監督は自身をめりこませている。自らの投影であるとか反映ではなく、エリセ監督そのものをフィクションにしてしまおうとしている。こうした姿勢はフェデリコ・フェリーニ監督の「8½」に近い。
さて、物語は行方不明となったフリオを探索するテレビ番組に、当時の劇中劇の監督を務めていたミゲルが出演することから再出発する。失われた友の痕跡を巡って主人公が彷徨う様子はミケランジェロ・アントニオーニ監督の「情事」のようであり、また、劇中劇の冒頭しか"本作の観客"に明かされず、残りのシーンについては本作の登場人物たちが言及することによってのみ成立しているという構図はボルヘスが小説で好んだ手口だ。
このように、登場すべき人物の不在、あるいは何らかの物語が欠けていることを描くことで、それが我々の知性に常に内在している穴のようなものであることを示している。ちょうどドーナツの穴を含めてドーナツと呼んでいるように、記憶や人格、人間関係などに常に脱落した部分があり、我々が何かを知っている、理解しているということは、その脱落を見逃しているだけではないのか、ということだ。記憶の脱落は誰しも経験することであり、本作においてフリオが記憶喪失であると描かれることによって、ミゲルをはじめ観客は人格の"同一性"という夢を指摘される。そしてフリオを巡る人間関係は、フリオが登場することによって変化するものの、そのフリオは皆が知っているフリオではない。ところが、持ち物によってフリオという人物の同一性を皆が確信したように、名前には意味がないのではないか、我々とは世界において根無草のようにたゆたい、常に脱落した部分の存在するフィクションの登場人物と何が異なるのか、という、フィクションとしての現実を表現しようとしている。
劇中には「リオ・ブラボー」をはじめいくつもの映画へのオマージュがあるものの、それはもちろん映画というメディアが相互に関連し合うものであることをエリセ監督が遊び心で取り入れているからだ。だから映画ライターたちがよく指摘するような、このシーンはあの映画のオマージュ、なんて意味がない。そんなことはAIに映画を記憶させれば、そのうち全てのオマージュを教えてくれる。人間の知性とは、映画の全篇を通して、"この表現の向こう側には何があるのか"ということを探ることだ。「瞳をとじて」であれば、上記のように、現実とフィクションという境界を取り払い、あたかも全てがフィクションのなかで消失してしまうような地点へと観客を連れていく映画である。もちろん、連れていかれたことに気付かない観客は本作の客ではなかったというだけのことだ。だから、観客にナニナニを伝えている、という映画サイトでの常套句は本作の主旨に反している。この映画に"観客"はおらず、エリセ監督もいなくなり、ミゲルとフリオがカメラ目線になって瞳を閉じ、スクリーンが暗転する時に、全てがフィクションになるというオチである。
こんなウケない映画を169分もの長さで公開するのだから、エリセ監督はボルヘスのファンであることがよく分かる。ボルヘスの小説を"楽しむ"人には薦めることのできる映画だろう。僕はかなり分かりやすく書いたつもりだが、それでもこうしたテーマというものはほとんどの人を弾いてしまうものだ。
それにこうしたテーマは本来であればもう少し推敲を重ねながら、多少の専門用語も使用しつつ時間をかけて書くものだが、あいにくこのnoteは無料公開の書き飛ばしである。僕は楽しんで観た。もちろん道中は眠い。しかし83歳の御大が一生懸命撮ったのだから、眠くて当たり前なのだ。老人は時間の進み方が異なる。
ちなみに、映画の冒頭で映されたヤヌスの像は、よく過去と未来を見通すなんて解説されているが、もともとは国境において国の内と外を見張る役割を担っていた。つまり門の神である。本作のヤヌスが前と後の顔で見張っていたものとは、現実とフィクションのことだと僕は捉えている。

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