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ハイパーリンクの先が架空なら / 伝奇集

映画の台詞で小説や詩が引用されるように、あるシーンを意図して他の映画に似せるということは頻繁に行われている。黒澤明の映画はハリウッドでたくさんオマージュされてきたし、ヒッチコックの作品はパロディも含めてあちこちで引用されている。小説でも冒頭に他の作家の文章を載せている作品は数多い。
こうした引用はインターネットすなわちハイパーテキストの発想だ。あるページの中に、他のページへジャンプするところを設置(ハイパーリンク)することで相互のページが繋がっていくという原理だ。ホルヘ・ルイス・ボルヘスという名のアルゼンチンの作家は「伝奇集」という作品の中で、架空の書物についての書評という奇想天外をやってのけた。読者がその書評を読む限り存在する書物という発想は、宗教の根本に近い。天才たる所以である。
このハイパーテキストあるいはハイパーメディアという方式は人の知能の仕組でもある。かつてマクルーハンが指摘したように、人のやることはだいたい人の持つ機能の拡張というわけだ。つまり、ある文章や映像といった入力から多数のリンクを張り巡らせることのできる人は「便利なページ」すなわち賢いと呼ばれる。あるいは、会話の中に隠されたリンクを発見できる人もスマートと呼ばれるだろう。シャーロック・ホームズやハンニバル・レクター博士はまさに優れたハイパーメディアの持ち主として描かれた。
さて、最近流行りのAIはインターネットを通じて知りたい事柄を要約してくれたりするそうだが、人の知能は予期せぬハイパーリンクを生み出すことができる。たとえば、AIに対して「ジョージ・オーウェルの『1984』ってどんな話なの?」と聞いても、「主人公がビッグブラザーの支配体制に不満を持っていたら逮捕されて拷問されて転向する話」云々と、あらすじどころか身も蓋もない回答を得るだけである。つまり、1984という書物を読破する間に読者が各ページから得られるたくさんのハイパーリンクが全てすっぽ抜けてしまうのだ。「この熟語を覚えた」とか「思想警察っていう単語がウケる」とか「今の日本政府の方がもっとヤバい」とか、なんでもいい。そういうものの集積が知性なのだ。
検索する、Googleするということは、多くの人が書くことの平均値を得ると言ってもいい。簡単な調べものなら平均値で構わないだろうが、本当のその人の知能というものは、実際に「読む」「観る」「聴く」などの、やや時間のかかる行為を通して培われるものである。ボルヘスを読んだことのない人がインターネットのボルヘスに関する記述の要約を受け取ったとしても、それはあくまでも「多くの人はこういう感想を持ったそうです」という程度の意味しかなく、それはハイパーリンクにはならないし、ましてや教養などであるはずがない。映画を観ても、気になるシーンは視聴する機会ごとに変わるはずである。それは我々の脳が色んな感覚を通して刺激を処理、つまりハイパーリンクを設置しているからだ。だいいち、多くの人の感想なんて得てして当てにならない。
読むに値する書評や感想というものは、ハイパーリンクの豊富な人物が生み出すものだろう。これは自戒の念を込めて書いている。

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